2023年05月13日

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第7回


 「鎌倉歴史散策」事前連載読物第7回をお届けします。

「鎌倉歴史散策」は、6月11日に実施することで、先日会員皆様にご案内をし、参加募集を開始しました。

 募集人数に限度がありますので、ご希望の方は早目にお申し込みください。

                            副会長・幹事長小林敏二

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         落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第7回)

                           和田家30世 和田高明

頼朝存命中、国司就任は源氏系の御門葉・源氏と同等の扱いを受けた准門葉に限られていたのですが、頼朝亡き後北條氏がこの慣習を破ったため、義盛が対抗心で上総国司を願い出たものの、北條氏の嫌がらせを受けることになります。義時は認可をいつまでも引き延ばしたため、業を煮やした義盛が申請を取り下げたことで実朝の怒りを買うという事態になったのです。承平3年(1209)のことです。また、義村の代官が小笠原御牧で京都朝廷の牧士と紛争を起こしたのを機に、義時は義村の奉行職を解任し、佐原景連に替えたのです。当時、御家人から没収された所領や諸職は同族の他の者に与えるという慣習があったので、これに従ったかに見えますが、三浦一族の中でも三浦本宗家より佐原流を優遇して亀裂を生じさせる処置です。義時の、三浦党(中でも和田)に対する挑発が続きました。

実朝に子がない為、君側の奸義時を討伐して、頼家の遺児千寿丸を実朝の後継に押し立てる計画が密かに立てられたものの、建暦3年(1213)2月、事前に露見して事は未遂に終わりました。信濃武士青栗七郎の弟僧阿静坊安念が千葉介成胤を味方に引き入れようとしたものの、彼にその気持ちは全くなく、安念を捕縛して義時に引き渡したのです。

安念が自白したことで事の次第が明らかになりました。この陰謀の首魁とされたのは信濃小泉荘の泉親衡(親平)でしたが早々に逐電して姿を晦ましてしまいました。(彼は下北へ逃亡し、南北朝時代まで地頭を称していました。)義時は、自白で名の上がった義盛の四郎義直・六郎義重・甥の胤長を捕えました。3月8日、この知らせを聞いた義盛は所領の上総伊北荘(千葉県いすみ市・勝浦市辺り)から鎌倉に駆け付け、直接実朝に釈放歎願をしたのです。義時が近侍していなかったので、過去の忠勤や軍功を言い立てて情に訴え、息子二名を連れ帰ることができました。しかし、翌日、一族98名を従えた和田平太胤長の身柄引き渡しの要求は義時に拒絶されて実朝の許しを得られず、皆の目の前を引き立てられて二階堂行村に引き渡されたのです。17日には早くも陸奥国岩瀬郡(福島県西部)に配流。露骨な義時の挑発でした。

この胤長は和田合戦の後5月9日に殺害されたことになっていますが、実際は安東氏に救いを求めて逃亡しています。

 更に慣例に従って義盛への胤長邸返付許可を義時は取り消して自分のものとし、義盛の代官を叩き出す挙に出たのです。あからさまな義時の挑発です。義盛の辛抱も限界でした。

和田氏与党に密使が立てられました。武蔵横山荘(八王子市)の横山時兼、相模山内党の山内政宜、岡崎実忠(佐奈田義忠の子)、相模渋谷荘の渋谷高重、相模中村荘(中村党)の土屋義清(佐奈田義忠の実弟)、相模毛利荘の毛利景行、相模鎌倉党の梶原朝景(景時の弟)、横山党の庶流古郡保忠(義盛の次男義氏のこと)等で、幕府の西北隣に屋敷のある三浦義村からは「挙兵と同時に幕府北門を襲うべし」との起請文を出させて準備が進められたのです。横山党は強力な味方でした。常盛の母は前棟梁時廣の妹で、常盛自身は現棟梁時兼の妹(母の姪)を妻としていたのです。それにしても北條氏の和田に対する警戒と諜報活動は極めて長けていました。和田一族の挙兵の企ては、事前に義時に察知されていたのです。頭脳戦において、北條氏ははるかに三浦・和田を凌駕していたのです。

7A2天養院薬師如来坐像.jpg 7C毘沙門天立像[矢請毘沙門天]:清雲寺2.tif 7B1神明白旗~社.JPG ⇐写真はクリックすると拡大します。

天養院薬師如来坐像 青雲寺毘沙門天立像 神明白旗神社

                               <以下次号>








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2023年05月09日

地引網実施報告

地引網実施報告
ゴールデンウイーク中の5月3日、鎌倉稲門会では、雲一つない晴天に恵まれ、由比ガ浜海岸にて地引網大会を開催しました。昨年も100人を超える参加者がありましたが、あいにく網が海底に引っ掛かり、外れなくなるというトラブルにより、やむを得ず、途中での中止となってしまい、雪辱を兼ねての開催となりました。当日は、風も穏やかで大漁が期待される中、お隣の逗葉稲門会の方々や、会員ご家族の皆さんを含めて117名が参加しました。また、由比ガ浜海岸を活動の拠点としているウィンドサーウィン部の現役学生の皆さんによる活動報告やボードの展示なども行われました。鎌倉稲門会でも彼らのインカレ優勝を目指して、応援していくこととしています。
さて、獲物の方は、コロナ明けを目前として、今までのストレスを発散するかのように皆さん、力いっぱい網を引いた甲斐もあり、石鯛などの高級魚からイワシなど大漁となり、小学生の参加者間でのジャンケン大会で大いに盛り上がりながら、みんなで仲良く分けてお持ち帰りしていただきました。これからも近隣稲門会との交流や現役学生の支援などを含めて、さまざまな活動運営を充実してまいります。
 DSC_8544_003.JPG WS部紹介.jpeg 網を引く.jpeg DSC_8555_001.JPG 
  会長から開始宣言    ウィンドサーフィン部挨拶    網を引く
 DSC_8551.JPG DSC_8581_002.JPG DSC_8580.JPG 大きい魚はジャンケンで.jpeg
                 とれた魚は参加者に配分  こんなクロダイもとれた 大きい魚はジャンケンで
 DSC_8545.JPG (写真はクリックすると拡大されます)
  参加者の皆さん                          
                          (文:足立原啓太、写真:小林敏二・藤林明)

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2023年05月08日

第6回鎌倉歴史散策のご案内

 鎌倉稲門会 会員の皆様
 この度、「第6回鎌倉歴史散策」を添付ご案内書およびチラシに表示の通り行うことにいたしました。
 コロナ問題下の行動制限も大きく緩和されました。
長い史跡めぐりと歴史散策の催しの中で、初めて貸し切りバスを利用しての散策と思います。
テーマは「鎌倉幕府と三浦一族」です。
 まだNHKドラマ「鎌倉殿の十三人」の記憶も残る中、十三人のうちの一人和田義盛の直系末裔の当会会員を案内役講師として企画しました。
 訪問先寺社で貴重な寺宝を拝し、講師からは興味ある歴史話が聞けることと思います。
皆様お誘いあわせの上、参加お申し込みをいただきたく、ご案内いたします。

                                       副会長・幹事長 小林敏二


   歴史散策案内・参加申込書.pdf       チラシ.pdf ⇐クリックしてください。





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2023年05月06日

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第6回

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第6回をお届けします。                        副会長・幹事長 小林敏二 

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               落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第6回)

                             和田家30世 和田高明

 和田義盛とはどんな人物だったのでしょうか。三浦市の来福寺にある木像が本人の面影を残しているならば、無骨ながら慈愛に満ちた容貌をしています。大局を摑んで行動力があり統率力に優れているが、細かな事務的なことは苦手だった29代目に通じるところがあります。およそ官吏とは程遠いのです。800年以上を経てもなお筆者の従兄である30代目、そして31代目に風貌が似ています。三浦市の神明白旗神社には青銅製の義盛像(御神体)が安置されていたのですが、何時の頃か失われ行方不明となってしまいました。(盗難でしょう。)

 彼は駆け引きを好まず、感情を繕わず直截的に表して潔さを旨として情を先に立てる。考え方は、あくまで古代武人であったのでしょう。この好例として、建久6年(1195)、頼朝は東大寺再建のために上洛しましたが、三浦党と足利氏の間で騒動が起きます。この時真っ先に義澄の許に駆け付けて気勢を上げた中心に義盛がいたのです。本来ならば、騒乱を鎮める立場だったにも拘らず、です。また、領地経営から経済流通に関して時代の変化に対応できなかった面もあったと思われます。そこのところが、従弟の三浦義村と相容れぬ対立点だったのでしょう。平六義村は、北條氏の意図を推し量ったうえで自らの行動を決する、はた目には優柔不断なところがありました。義村にとっては、義盛は先のことを考えずに独断で行動を起こす粗野な奴と映っていたはずです。義村は、一族内での優位性を先に立てて、真の敵を見誤ってしまったのです。北條氏は、最終的に三浦一族を排除するのだということを。比企氏、畠山氏のことだけでも思考すればすぐに判ることでした。ほかにも千葉廣常、一條忠頼、安田義貞・義資父子の殺害等があります。結城朝光の夢見の話から端を発した梶原氏殲滅などは、巧妙に仕組まれた北條氏の罠でした。義時の妹阿波局まで加わっています。これには義盛も義村もまんまと乗せられてしまったのでした。

 宝治合戦(1247)で三浦宗家が滅亡した後、三浦介の称号は佐原流に認められるのです。佐原流とは義明の末の息子義連の系統なのです。

 頼朝の後を継いだ頼家にも三浦一族は支柱となっていました。三浦一族はあくまで源氏の御家人でした。その中心にいたのが和田氏でした。正治2年(1200)9月、頼家は小坪を遊覧し三浦一族が歓待したときのことです。座興として義盛の三男義秀が水練の芸で鮫を生け捕ってきた褒美に頼家が名馬を与えようとしました。ところが長男の常盛が相撲では負けぬので、名馬は勝者に与えたまえと申し出たので、取っ組み合いが始まりました。なかなか勝負が決せずに、義時が引き分けを提案した途端、常盛が当の馬に跨って駆け去ったので義秀が地団太を踏んで悔しがったという話が残っています。

頼家の子善哉丸(公暁)の乳母は義村の妻でした。将軍家と三浦一族の結びつきは強固だったのです。しかし、北條氏は三浦氏にも懐柔の手を伸ばしてきました。泰時の妻に義村の娘を所望してきたのです。後に矢部禅尼と呼ばれる人です。(後年離縁されています。)比企氏殲滅はこの段どりの後に行われ、頼家は修善寺に幽閉され、頼家に引導を与える役は義村が担いました。北條氏の手先となったのです。次に狙ったのは畠山氏でした。この時ばかりは、義時も父の陰謀であったことを見抜き非難しています。手遅れでしたが。

 7➀1和田義盛公像:来福寺.jpg 7➀2和田義盛旧里碑.JPG 7➀3和田城址.JPG ←クリックしてください。

 写真左から和田義盛像 三浦市・来福寺蔵、和田義盛旧里碑、和田城


                               <以下次号>


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2023年05月05日

2023年度稲門祭 記念品購入のお願い

鎌倉稲門会 会員各位                                                                      2023 年度稲門祭 記念品購入のお願い

薫風の候皆様におかれましては益々ご壮健のことと拝察申し上げます。

日頃より鎌倉稲門会の諸活動にご理解・ご支援をいただき、心より御礼申し上げます。

今年度《2023 稲門祭》も1022日(日)のリアル開催を予定しています。それに伴い今年度も記念品を販売し、収益は学生の奨学金とします。出費ご多端の折まことに恐縮ですが、例年通り鎌倉稲門会も以下の要領で販売窓口を設けますので金額の多寡によらず協力を賜れば幸甚に存じます。

尚 記念品の内容は添付のリーフレット@・申込用紙Aをご参照ください。

                    

申込方法:鎌倉稲門会を経由しての申し込みは、以下の(1)〜(4)の方法にてお願いします。

     (1)行事等の会場で直接申し込み(その場で現金支払い)

               (2)  電話で申し込み(支払いは後日)090-3500-7648(委員・山田重文携帯 

     (3) メールで申し込み(支払いは後日) wasedakamakura@yahoo.co.jp

(4)申込用紙Aに記入のうえ郵送(支払いは後日)

  〒247-0056  鎌倉市大船11618福美ビル303号 鎌倉稲門会事務局宛

             2023稲門祭実行委員 山田重文・伊藤真

【補遺】

〇記念品のお渡し

・基本的には《鎌倉稲門会年次総会》でお渡しします。(10月上旬)

・稲穂展(915日〜18日)

  於:鎌倉生涯学習センター地下での受取希望の方は、山田重文委員に直接

   ご連絡ください。

・会員の皆様の申し込み合計額が5万円を越えると送料(800円)が無料になります。よって当方で集計する申し込み額が5万円に達するごとに業者に発注する方法をとりますので、お渡しが遅くなります。

〇お支払い ―(1)以外は、記念品をお渡しする際、現金にてお支払いください。

〇申込期限 ― 集計の都合上、鎌倉稲門会内の〆切は 2023年8月31日(木)とします。

〇福引券について

    ・記念品購入額に応じて交付される〈福引券〉は当会実行委員が厳重に保管し、

     抽選事前申込受付が開始されると同時に半券を稲門祭事務局宛に郵送します。

    ・当選者には直接賞品が郵送されます。

 IMG_20230505_0001_NEW.pdf ⇐記念品のリーフレットと申込書です。クリックしてく

                 ださい。

posted by 鎌倉稲門会 at 20:19| Comment(0) | ○ 事務局から

2023年05月03日

本日の地引網は予定通り実施です。

鎌倉稲門会 会員の皆様
 本日5月3日(水・祝)の地引網は、予定通り実施します。
天気は良好、皆様大いにお楽しみください。
受付開始は9時30分、スタートは10時です。
               5月3日 AM7:00
            地引網実行委員長 小林敏二



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posted by 鎌倉稲門会 at 07:00| Comment(0) | ☆ 地引網

2023年04月30日

「鎌倉歴史散策」事前読物第5回

「鎌倉歴史散策」の事前読物第5回をお届けします。文中の「満昌寺」は、6月11日の催行日には、まず最初に訪ねる予定をしています。                                  副会長・幹事長 小林敏二*********************************************************************************

      落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第5回)                                                   和田家第30代 和田 高明

建久元年(1190)10月、大軍を率いて上洛した頼朝は、後白河法皇から征夷大将軍に任じられることはありませんでしたが、替わりに東国武士10人を任官させたのです。その中に三浦一族の三浦義村(義澄が辞退して息子に譲った)、和田義盛、佐原(三浦)義連の3名がおりました。征夷大将軍に任じられたのは、2年後法皇が崩御してからでした。後鳥羽天皇の勅使から除書受け取りの役を承ったのは三浦義澄でした。彼は比企能員と和田宗実(義盛の弟)を従えて大任を果たしたのです。三浦義明の宿願が果たせたというべきでしょうか。

頼朝と三浦一族との関係は浅からぬものがありました。養和元年(1181)の三浦訪問の後、判っているだけで建久5年(1194)閏8月、9月、翌年正月、8月と頼朝は三浦に来遊して一族の歓待を受けているのです。建久5年9月末、頼朝は義明供養の堂宇建立の為、中原仲業に命じて矢部郷を巡見させています。それでできたのが満昌寺です。そして建久8年(1197)頼朝は義明17回忌に満昌寺を訪れて親しく供養し「今日まで存命していたと思う」と言葉を残し、手ずから躑躅を植えました。(今なお境内に残る。)

頼朝の三浦一族に対する扱いは、複雑なものがありました。再三にわたる三浦訪問を見る限り、ひたすら親愛の情を感じますが、平家追討時の軍の配備を見ると一族を引き裂く意図が明らかです。当時の武士は、一族同党は行動を共にするのが通例でした。また、武士団の構成員の功はその武士団の功とみなされ、その棟梁が行賞されるものでした。木曽攻めで佐原義連や石田為久を義澄と引き離して出撃させたり、為久を義澄を通さずに褒賞したり(近江山室保を与えられた)、壇之浦合戦に際し、義澄には周防国守備を命じ(結果的には義経の命で船戦に参戦することになった)、義盛は範頼の戦目付の立場で豊後国に渡るなど一族はばらばらでした。鎌倉殿を支える東国武士の中で最も財力・兵力を蓄えていた三浦一族は、見方によっては源氏の大いなる脅威ではあったのです。頼朝とその背後にいた北條時政の思惑が三浦党の勢力分散に向かっていたことは否めません。

さて建久10(1199)正月、稀代の英雄源頼朝は生涯を終えますが、その死に関しては大いなる謎が残ります。相模川に架ける橋の竣工を祝った帰りに落馬したことが因で亡くなったことになっていますが、まだ52歳の武士の棟梁が易々と落馬するはずがなく、落馬が事実なら重大な落馬の原因があったはずです。そして何と言っても「吾妻鏡」は最も肝心な1196年から1199年正月まで記録が抜けているのです。

筆者の私見では、ここに北條時政の影を見ることができます。時政も清盛も同じ平氏の貞盛系であり、これは平氏嫡宗家内で主導権奪取の意味もあること。時政の5代前の直方が平忠常の乱を鎮めることができず、追捕使交替で源頼信が忠常を降伏させた過去があり、時政には腹の底で源氏に対する旧敵意識があったと思われます。頼朝に関しては勝気な政子に引きずられて腹を括って奔走したのです。頼朝亡き後は本性をむき出して、比企氏・畠山氏討伐、そして頼家暗殺、将軍廃立の企てもすべて時政の陰謀です。

<以下次号>

 5B2頼朝手植躑躅:満昌寺.JPG 7➀3和田城址.JPG 7D来福寺.jpg

  頼朝お手植え躑躅  和田城址        来福寺


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2023年04月22日

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第4回

6月11日予定「鎌倉歴史散策」の事前連載読物第4回を掲載します。企画のお知らせと参加募集まで、もう少々お待ちください。

                            副会長・幹事長小林敏二

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 頼朝軍が房総半島西岸部を北上する間に、味方するものが続々と集まってきました。去就が危ぶまれていた上総権介千葉廣常も遅ればせながら二万騎の大軍を率いて参会したのです。こうして隅田川まで進軍したときに問題が生じました。衣笠城を攻撃して落城させ、三浦大介(みうらおおすけ)三浦義明を戦死させた畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの秩父党が降伏してきたのです。気色ばんだのは源軍の中枢である三浦党でしたが、頼朝が何とか言いくるめて味方に組み入れたのです。これで海の雄族三浦党、陸上最大勢力の秩父党が頼朝軍を支えることとなりました。

 頼朝は鎌倉に入ると、先祖ゆかりの八幡宮(由比若宮)を遷座して(鶴岡八幡宮の現在地に)都市建設に取り掛かります。1020日、富士川の合戦で平家軍を打ち破った東国軍は、3日後の論功行賞で三浦義澄に三浦介(みうらのすけ)の称号を許し、彼が三浦党の惣領であることを認可しました。また11月には侍所を設置してその別當に和田義盛を、所司に梶原景時を据えました。これで幕府御家人を統べる義盛と、三浦党をまとめる義澄の二重体制ができ、三浦党に複雑な構造が出来上がったのです。

 寿永2年(1183)末、平家打倒出撃反対の中心人物千葉廣常が、頼朝の命を受けた梶原景時に誅殺され、続々出陣していった東国武士は、翌正月、京都を占領していた木曽義仲を撃破しました。義仲の首を挙げたのは、三浦党の石田為久(相模石田荘)でした。生け捕りにされた巴御前が鎌倉に引き立てられ、義盛に預けられたことで、豪勇で名高い義秀が巴の子であるとの俗説がありますが、彼は既に誕生しております。

ついで一の谷合戦では義経に従った三浦義連らが活躍。そして元暦2年(1185)3月、壇之浦合戦にて平家を滅亡させました。最後の決戦の時、三浦義澄は周防国残留で連絡路維持を命じられましたが、義経によって道案内を託され、戦闘に参加することができました。一方義盛は、源範頼の戦目付として豊後に渡り、直接海戦には参戦していません。しかし、渚から盛んに遠矢を射かけました。3町ほどなら命中させたというからすごいものです。

源平合戦後逃亡していた義経の居所が知れたのは、文治4年(1188)2月のこと。翌年、頼朝は全国に義経・藤原泰衡追討の軍事動員をかけました。恐れをなした泰衡は義経を襲い自殺に追い込むも、頼朝自ら藤原氏打倒に出陣。藤原軍は防戦空しく敗れ、泰衡は部下の裏切りにあって殺されました。頼朝はかつて頼義が安倍貞任を討った厨川に進撃し、自分が頼義の正統な後継者であることを示したのです。

進軍の途中、和田義盛は頼朝直属の大手軍にいましたが、阿津賀志山(福島県伊達郡国見町大木戸の厚樫山)で西木戸國衡(泰衡の兄)を打ち破り、武士の情で逃がすということがありました。これを見届けた畠山重忠配下の大串次郎が、國衡を追尾して討ち取ったので、怒ったのは義盛です。一族共々頼朝の幕下を離れ、奥州津軽の安東氏に食客しようとしたのです。驚いた頼朝は義盛をなだめ、岩見澤の地(秋田県山本郡三種町下岩川字岩見沢)に一族数名を残して鎌倉に帰着したのです。義盛の男気を表すエピソードです。


 5B1元八幡.JPG 6A薬王寺跡、杉本義宗・三浦義澄墓所.JPG ←クリックしてください。

 元八幡(材木座) 薬王寺墓所(横須賀・大矢部)

                                                           <以下次号>









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2023年04月15日

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第3回

6月11日に予定される「鎌倉歴史散策」の事前連載読物第3回です。

目下、担当役員が歴史散策の催行に向けて準備を進めています。

どうぞご期待ください。

末尾の催行予告もご覧ください。

                           副会長・幹事長 小林敏二

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           落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第3回)

                                                   和田家第30代 和田高明

 安元3年(1177)春、三浦義澄は番役勤仕の為に上洛しましたが、間もなく鹿ケ谷の事件が起きました。平氏打倒の企ては失敗に終わりましたが、平氏と後白河院の間に亀裂が走っていることが明白となり、義澄にとっては希望の持てる状況でした。治承3年(1179)清盛はとうとう後白河院を幽閉して院政を停止させ、翌年、以仁王が平氏追討の令旨を全国の源氏に下す事態となったのです。しかし5月、挙兵した以仁王・源頼政は平氏の追手によって宇治で討死しますが、東国武士の奮戦によって平家方が勝てただけで、義澄たちは平氏本体の弱さを実感します。この間三浦では、治承3年6月、己が身の不運に絶望した杉本太郎義宗が自刃して果てています。

 一方、治承4年(1180)4月下旬には以仁王の令旨が伊豆の頼朝の許に達し、衣笠の三浦義明の許にも届けられました。このとき義明は風邪気味で伏っていましたが、佐殿からの使いに身を清め白装束に立烏帽子姿で令旨を受けたのです。6月、義澄は京都を発ち伊豆配流の頼朝に面会の後三浦に帰国。頼朝と三浦党の連絡は相模湾海路で行われました。

 満を持して、同年8月17日頼朝は挙兵しましたが、その後齟齬が目立ちました。緒戦で伊豆目代山木判官兼隆を討ち取ったものの、降り続く雨に禍されて佐々木兄弟の参着が遅れ、酒匂川の増水のために最も頼りにしていた三浦党は渡ることができなかったために石橋山の合戦に加わることもできず、頼朝の行方生死が不明となったのです。石橋山の合戦では、真田与一義忠(岡崎義實の長男)が討死しています。(2324日)

 三浦党はやむなく衣笠城に引揚げ平家軍の来襲に備えることとなりました。途中、畠山軍と由比ヶ浜で一合戦ありましたが、衣笠城で軍議が開かれました。三浦義澄・和田義盛は要害の怒田城に籠るべしと主張しますが、棟梁の三浦義明は三浦党を代表する衣笠城で平家軍を引き受けるべしと決したのです。かくして8月26日、河越重頼の総采配の下に押し寄せた平家軍と三浦党との間で合戦が行われましたが、終日の戦で城は陥ちず、夜になって軍議が行われました。

義明は、佐殿の生死が不明だが生きていると信じてお尋ね申せ、そのため自分一人を残して城から脱出せよと厳命したのです。三浦党の面々は泣く泣く夜陰に紛れて城から抜け出しました。一行は浦賀水道を横切って猟島に集結、後続を待つことになります。翌日、平家方の秩父党の総攻撃で衣笠城は落城。義明は、隙をついて城を脱出。先祖の墓所である大矢部の圓通寺の見える場所で馬が歩みを止めたため、先祖の御魂のお告げと解して、そこで腹を切ったのです。遺骸は息子の大多和三郎義久父子に託され、敵の退出後甲州の三浦寺に運ばれ納められました。一方、石橋山を脱した頼朝は、しとどの岩屋から富士東麓を抜けて道志道に入り、八菅山で船の準備を整えると中津川・相模川を下って江ノ島に至りました。こうして頼朝は須ノ崎に渡ると須崎明神に願文を収め、猟島で待つ三浦党や北條らと再会、集結となったのです。9月3日には一旦東岸に出て、三浦党は長狭常伴を撃破、義宗の無念をも雪いだのでした。この時蓬島に頼朝を匿ったのは太海の名主平野仁右衛門で、その恩賞に永代島守を認められました。現在の仁右衛門島です。<以下次号>

 5➀1三浦義明公木像:満昌寺.jpg 5➀3満昌寺.JPG 5A腹切松公園の腹切松.JPG 

 三浦義明像(満昌寺蔵)満昌寺(横須賀市大矢部)義明の腹松(大矢部・腹切松公園)

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2023年04月11日

第70回「りんどう句会」報告

第70回「りんどう句会」報告

(2023年3月27日(月)鎌倉芸術館にて開催)

70回句会は欠席投句2名を含む13名の投句で計39句、選句は⒕名で行いました。当月の兼題は千葉ふみこさん出題の春の季語「枝垂桜」。その容姿から糸桜とも呼ばれ、淡紅色の一重の花が天蓋の形で枝垂れる姿はとても艶っぽくて美しいものです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

千葉ふみこさんの「幾千の恋路見つめて紅枝垂」や、石川一洋さんの「秘め事を覆ふ如くに紅枝垂」は特にそのあたりの本意を印象的に捉えた句で多くの読者の共感を呼びました。

当季雑詠では、田村昌恵さんの「青信号園児手に手につくしんぼ」は「つくしんぼ」がとても効いていて可愛らしいとの声が多く、最高点の10点句となりました。

千葉ふみこさんの「咲き競ふ木蓮の白空の青」は見上げる高木の白木蓮と空の青との

対比が見事との評、また、福田くにもとさんの「草餅を食むのが先の寺参り」(古語では、食む=はむ、と読みます)の句には皆さん大笑いでした。

 3点以上の得点を上げた句は以下に掲げますが、それぞれの句を味わっていただければと思います。なお、ここには掲げませんが、無点句を含めた2点以下の句にも佳句がたくさんあります。会員それぞれのこれまでの人生経験や感性、好み、句歴等々の違いにより、選が分かれるのは俳句ではむしろ当然のことです。

次回は5月1日(月)(当初予定は4月最終週の月曜日の24日でしたが、都合により変更)開催で、兼題は浜崎かづきさん出題の「陽炎(かげろう)」です。兼題1句と当季雑詠2句をご用意ください。

 当句会への新規入会あるいは体験参加希望の方は、鎌倉稲門会事務局あてメールでお問い合わせください。お待ちしております。


【今月の高得点句(原句を一部修正。同点句は兼題優先)氏名は俳号

     (10点句) 青信号園児手に手につくしんぼ   田村昌恵 

     ( 8点句) 咲き競ふ木蓮の白空の青      千葉ふみこ 

     引越しの荷や車座の桜餅       吉崎明光

     ( 7点句) 幾千の恋路見つめて紅枝垂     千葉ふみこ 

     ( 5点句) 草餅を食むのが先の寺参り     福田くにもと

     ( 4点句) 秘め事を覆ふ如くに紅枝垂     石川一洋 

     糸桜地を掃くやうに吹かれをり    浜崎かづき

     ( 3点句) 老いてなほ華やぎ増して糸桜     高吉よしえ 

            春昼やうかうか歳を重ねをり     石川一洋


       (吉崎明光記)


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