2023年06月21日

第6回鎌倉歴史散策報告

     大型バスを仕立て、総勢47名で三浦・和田氏の史蹟を探訪

 2回開催している歴史散策。今回は611()に、NHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」でも重要な役を担った三浦・和田氏縁の史蹟を巡りました。講師は、鎌倉稲門会会員で、和田義盛直系の30代目の子孫である和田高明(昭47法学卒)さんです。

 鎌倉から三浦半島にかけては、両氏縁の史蹟が数多く点在しています。今回は、横須賀市内の近いエリアにある史蹟に絞り、大型バスを仕立てて、総勢47名で巡ってきました。

 9時過ぎに鎌倉を出発し、約30分で、三浦氏の本拠だった衣笠城址に近い最初の訪問先、横須賀市大矢部の「満昌寺」に到着。「満昌寺」は源頼朝が三浦大介義明供養のために建立した臨済宗建長寺派のお寺です。挨拶なさったご住職からバトンタッチして説明とご案内をして下さった副住職は、早稲田大学出身で横須賀稲門会の会員とのこと。建長寺で5年間修行した間は、鎌倉をくまなく托鉢して歩いたそうで、皆様も出会っているかもしれません。

 約50分、拝観と見学をし、徒歩で、三浦義澄の嫡男、平六義村を祀った「近殿(ちかた)神社」、さらに、和田義盛が父と叔父の供養のために創建し、現在は廃寺となっている「薬王寺跡」を巡り、著名な鰻屋の「うな萩」でランチを堪能しました。

食後は、「腹切松公園」へ。物騒な公園の名は、三浦氏が立てこもる衣笠城が平家の攻撃を受けた際、全員を撤退させて最後まで城守った後、隙をついて脱出した三浦義明が、運命を悟って松の根方で切腹したことに由来するもの。現在は、宅地造成に伴い、場所をずらして松を植え直し、公園になっています。さらに、三浦為継が開き、同氏の菩提寺なっている「清雲寺」(臨済宗円覚寺派)を拝観した後バスに乗車。約30分の芦名にある、金剛山勝長寿院大御堂「浄楽寺」へ向かいました。

「浄楽寺」は、和田義盛の発願により建立された寺で、義盛夫妻発願で製作された、運慶作の不動明王立像など5体が安置されています。本堂でお話しを伺った後、予約でしか拝観できない運慶仏を拝観することもできました。また、芦名は近代郵政制度の創始者であり、早稲田大学創立にも関わった、前島密夫妻が没した地で、浄楽寺には墓所があります。私達早稲田大学で学んだ者にとっての恩人である、前島密翁のお墓にお参りすることもできました。

この日は、朝から雨の予報でしたが、移動中、ほとんど雨が降ることもなく、無事、15時過ぎには鎌倉に到着しました。

                     (文:大久保真由美、写真:小林敏二)

    移動

 5➀3満昌寺.JPG 義明公像.jpg DSC_8585_004.JPG DSC_8589_006.JPG 
      満昌寺             三浦大助義明公木像       満昌寺本堂前で         昼食は「うな萩」
 7E1浄楽寺.JPG DSC_8598_005.JPG  ← 写真はクリックすると拡大します。
     浄楽寺             浄楽寺本堂前で




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2023年05月27日

「第6回鎌倉歴史散策」事前読物第9回(最終回)

「第6回鎌倉歴史散策」事前読物第9回(最終回)をお届けします。

これまで連載をお読みいただきありがとうございました。

いよいよ6月11日に「第6回鎌倉歴史散策」が催行されます。

この連載を予備知識として散策いただくと、さらに興味も増すであろうと存じます。

                            副会長・幹事長小林敏二

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              落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第9回)

                             和田家30世 和田高明

南部に逃れた兄弟たちは先に逃れていた畠山の子孫(浄法寺氏)の許で家臣として血脈を繋ぐことができました。あれこれあって、いずれも南部藩士として明治維新を迎えます。畠山氏は、当初南部氏の客将でしたが、何時の頃からか南部の家臣となりました。有力な重臣でしたが、160001年の岩崎の陣での落ち度を咎められて改易され(その家臣であった我等和田一族も)、新田開発の功で御家再興を認められるまで数十年にわたって浪々の身として辛酸をなめています。これは、南部氏の外様粛清の犠牲になったものです。畠山は東北潜行時に浄法寺と名を変え、浪々の身となってからは松岡と更に改名しています。我らは、浪々の身となってからは大森と名を変えておりました。

*岩崎の陣:豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったために所領没収となった豪族の中に葛西晴信・大崎義隆・和賀義忠・稗貫廣忠等がいた。1591年、南部信直に対して起こした九戸政實の乱終結後、秀吉の奥州仕置に不満を抱いた和賀氏・稗貫氏等は、仕置軍引揚げの後に蜂起したが鎮圧された。1600年になって、領土拡大を企てる伊達政宗に扇動された和賀忠親が、旧領奪回をもくろんで岩崎城を拠点に南部氏に対して起こした反乱は、翌年南部利直によって制圧された。この岩崎城攻めの際の落ち度を咎められて浄法寺氏は改易となった。

 ほかの三浦一族の行く末について。三浦介を継承した佐原流は戦国大名に成長し三浦義同(道寸)に至りますが、北條早雲に攻められて命脈を断たれます。終焉の地は油壺の新井城でした。また、佐原流の分かれである芦名系は、奥州合戦の恩賞として与えられた会津に勢力を張り戦国大名として東北に名を馳せますが、伊達政宗に敗れ果てるのです。極め付きは石田三成です。木曽義仲を討ち取って近江山室保(長浜市石田町)を与えられた石田為久の子孫は三成に至りますが、最期は国民の知る所です。三浦一族は実に滅びの一族といえるかもしれません。

和田合戦の後日譚を一つ。『古今著聞集』にある逸話です。

和田合戦から半年ほど後、元旦のことだったらしい。年頭の椀飯(おうわん)の儀式に、御家人多数が幕府侍所に参集したときのこと。三浦義村も、当然出仕することになっていましたが、義村の出仕はやや遅れていたようです。日頃から義村の座と決まっていた上席が、下総守護千葉介成胤の子、若年の胤綱によって占められていたのです。そこに現れた義村は思わずかっとなり、

「下総の犬は、臥所(ふしど)を知らぬな」と睨みつけました。

端に振り向いた胤綱は、即座に気色も変えず言い返したのです。

「三浦の犬は、友を啖(くら)うなり」

れが同族を裏切った三浦党に対する、一般御家人の感情だったのです。

 最後に奇跡?を。

わが曽祖父は戊辰戦争の時、南部盛岡藩の兵士として、官軍に寝返った秋田久保田藩と戦いましたが、鉄砲玉に中ることなく生き残っています。また、第二次世界大戦においては、わが父は海軍で朝鮮航路の商船に乗って行き来していましたが、船が機雷に触れて沈没したものの無事で、沖縄戦線に行かされずに済みました。父の兄は矢張り海軍で激戦のラバウルに行きましたが無事帰国を果たしています。弟は陸軍で樺太50度線を守備し、ソ連と戦いながらも生還。父の甥(和田家30代)と母方の従弟は志願して予科練に行きましたが、出撃前に終戦となり生還。このように5人出征して誰一人弾に中ることなく無事生還したのです。先祖から一貫して不動尊・毘沙門天のご加護が続いていると申せましょう。

<了>


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2023年05月20日

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第8回

鎌倉歴史散策」事前連載読物第8回をお届けします。

今回は、この連載読物の中で終盤のクライマックスと言えます。著者の筆も一層冴えわたります。

6月11日(日)開催の「第6回鎌倉歴史散策」まで間もなくとなりました。

まだ席にゆとりがありますので、多数の方の参加お申し込みをお待ちいたします。

全行程、貸し切りバスでご案内します。昼食付、参加費は一人5,500円です。

                                       副会長・幹事長 小林敏二

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             落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第8回)

                             和田家30世 和田高明

 若宮大路東側の北端に北條泰時邸があり西の北端が土屋義清邸、その南隣が和田義盛の舘でした。建暦3年(1213)5月3日決起の予定が北條方に知られ、2日早朝のうちに三浦義村は義時の威嚇に屈して離反することになりました。北條方は泰時の指揮のもとに夕刻先手を打って和田邸に奇襲をかけたのです。驚いたのは和田の武将達でしたが、すぐに反撃に出て泰時邸を制圧すると、北條勢を追って義時の舘(現宝戒寺)の攻撃に移ったのです。しかし、義時舘は厳重な防備を固めていました。細かな戦の経緯は省きますが、義時は大江広元と共に実朝を奉じて法華堂に避難していたのです。三郎義秀の果敢な攻撃にもかかわらず、既に義村は北條方に寝返っていたため将軍確保はできぬこととなり、和田軍は反乱軍となってしまったのです。和田方にとって予定外の1日目は初手から齟齬をきたし、由比ヶ浜で夜を過ごすことになりました。

 明けて5月3日、早暁から小雨が降りだしていましたが、寅の刻頃横山党が着陣したのを機に、和田方の士気が再度高まり、若宮大路を北に攻め上がっていきました。危機感を抱いた義時は、御教書を作成し実朝の花押を付して、様子見をしていた武士団に次々と届けたのです。これにより、和田方が頼りにしていた千葉介成胤麾下の下総武士団、西湘武士団等が北條方に加わってしまいました。なかなか目的を達することのできない義盛は、和田軍をまとめると最後の決戦とばかり若宮大路を攻め上がっていきました。酉の刻、遂に四郎義直が討ち取られ、最愛の息子を失った義盛は生きる望みを失って、とうとう討死したのです。二人の死を近くで見ていた五郎義重と七郎秀盛は、満身創痍の身で最早これまでと自刃して果てました。いかにも早まった行為でした。しかし、太郎常盛、次郎義氏、三郎義秀は活路を見出そうと奮戦していました。六郎義信もそれに従いました。父の遺骸を背負った三郎を中にして南防御線を突破した一団は由比ヶ浜に進出。係留されていた舟に義盛の遺骸を乗せると義秀に託し、舟が離岸するや横山党を含めた残りの武将達は稲村ヶ崎から腰越を抜けて甲州方面へと脱出したのです。かくして和田一族は敗退してしまいました。

 和田合戦で義盛は奮戦の末斬り死にしましたが、痛みを感じなかったと言われています。その代わり、義盛建立の安楽寺の本尊薬師如来(安楽寺は廃寺となり現在天養院に薬師三尊像として祀られている)が血を流しており、また、毘沙門天(清雲寺の毘沙門天像)が敵の矢を受け止めていたという話が伝えられております。

 その後について語ります。義盛の遺骸を運んだ三郎義秀は、江戸湾の入口で安東船に遭遇し、彼らの庇護の許に外房小湊に上陸して義盛を荼毘に付すと東北へ向かいました。荼毘の地は現在の誕生寺のある場所だということですが、今では痕跡も残っていません。そして秋田土崎から川辺郡岩見澤に落ち着き、その後いろいろあって津軽に移り住むことになり現在に至ります。太郎常盛・次郎義氏・六郎義信は次郎の領地都留郡古郡(ふるごおり)へ落ち延びました。北條方の和田生存者狩りは執拗に行われましたが、常盛、義氏は主人の身代わりとして切腹した家臣の首を鎌倉に送り届けたのです。

次郎と六郎は合戦直前に鎌倉を抜け出していた常盛の嫡男朝盛の周旋で、承久の乱の後、彼と共に南部へ潜入することになります。常盛の最後の妻は、畠山重忠の女千鶴だったとのことで、皆で合議の上、常盛自身は(三浦寺改め)福仙寺の住職として残り、嫡男の朝盛のみ義氏・義信と共に東北へ潜入し畠山(浄法寺氏)を頼りました。和田と畠山との関係はかなり濃厚だったのです。<以下最終回へ>

和田・畠山関係

・三浦義明―┬―杉本義宗―――和田義盛―――和田常盛―――和田朝盛

      └―女(重忠母)          

┌―女(義宗母)                 

  └―秩父重弘―――畠山重能―――畠山重忠―┬―女(千鶴)                                                                 └―畠山重慶――-浄法寺重基

 8➀和田合戦時の鎌倉地図.tif 8A95.5.4和田合戦陣羽織.jpg⇐クリックしてください。

                           

                                 <以下次号>



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2023年05月13日

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第7回


 「鎌倉歴史散策」事前連載読物第7回をお届けします。

「鎌倉歴史散策」は、6月11日に実施することで、先日会員皆様にご案内をし、参加募集を開始しました。

 募集人数に限度がありますので、ご希望の方は早目にお申し込みください。

                            副会長・幹事長小林敏二

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         落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第7回)

                           和田家30世 和田高明

頼朝存命中、国司就任は源氏系の御門葉・源氏と同等の扱いを受けた准門葉に限られていたのですが、頼朝亡き後北條氏がこの慣習を破ったため、義盛が対抗心で上総国司を願い出たものの、北條氏の嫌がらせを受けることになります。義時は認可をいつまでも引き延ばしたため、業を煮やした義盛が申請を取り下げたことで実朝の怒りを買うという事態になったのです。承平3年(1209)のことです。また、義村の代官が小笠原御牧で京都朝廷の牧士と紛争を起こしたのを機に、義時は義村の奉行職を解任し、佐原景連に替えたのです。当時、御家人から没収された所領や諸職は同族の他の者に与えるという慣習があったので、これに従ったかに見えますが、三浦一族の中でも三浦本宗家より佐原流を優遇して亀裂を生じさせる処置です。義時の、三浦党(中でも和田)に対する挑発が続きました。

実朝に子がない為、君側の奸義時を討伐して、頼家の遺児千寿丸を実朝の後継に押し立てる計画が密かに立てられたものの、建暦3年(1213)2月、事前に露見して事は未遂に終わりました。信濃武士青栗七郎の弟僧阿静坊安念が千葉介成胤を味方に引き入れようとしたものの、彼にその気持ちは全くなく、安念を捕縛して義時に引き渡したのです。

安念が自白したことで事の次第が明らかになりました。この陰謀の首魁とされたのは信濃小泉荘の泉親衡(親平)でしたが早々に逐電して姿を晦ましてしまいました。(彼は下北へ逃亡し、南北朝時代まで地頭を称していました。)義時は、自白で名の上がった義盛の四郎義直・六郎義重・甥の胤長を捕えました。3月8日、この知らせを聞いた義盛は所領の上総伊北荘(千葉県いすみ市・勝浦市辺り)から鎌倉に駆け付け、直接実朝に釈放歎願をしたのです。義時が近侍していなかったので、過去の忠勤や軍功を言い立てて情に訴え、息子二名を連れ帰ることができました。しかし、翌日、一族98名を従えた和田平太胤長の身柄引き渡しの要求は義時に拒絶されて実朝の許しを得られず、皆の目の前を引き立てられて二階堂行村に引き渡されたのです。17日には早くも陸奥国岩瀬郡(福島県西部)に配流。露骨な義時の挑発でした。

この胤長は和田合戦の後5月9日に殺害されたことになっていますが、実際は安東氏に救いを求めて逃亡しています。

 更に慣例に従って義盛への胤長邸返付許可を義時は取り消して自分のものとし、義盛の代官を叩き出す挙に出たのです。あからさまな義時の挑発です。義盛の辛抱も限界でした。

和田氏与党に密使が立てられました。武蔵横山荘(八王子市)の横山時兼、相模山内党の山内政宜、岡崎実忠(佐奈田義忠の子)、相模渋谷荘の渋谷高重、相模中村荘(中村党)の土屋義清(佐奈田義忠の実弟)、相模毛利荘の毛利景行、相模鎌倉党の梶原朝景(景時の弟)、横山党の庶流古郡保忠(義盛の次男義氏のこと)等で、幕府の西北隣に屋敷のある三浦義村からは「挙兵と同時に幕府北門を襲うべし」との起請文を出させて準備が進められたのです。横山党は強力な味方でした。常盛の母は前棟梁時廣の妹で、常盛自身は現棟梁時兼の妹(母の姪)を妻としていたのです。それにしても北條氏の和田に対する警戒と諜報活動は極めて長けていました。和田一族の挙兵の企ては、事前に義時に察知されていたのです。頭脳戦において、北條氏ははるかに三浦・和田を凌駕していたのです。

7A2天養院薬師如来坐像.jpg 7C毘沙門天立像[矢請毘沙門天]:清雲寺2.tif 7B1神明白旗~社.JPG ⇐写真はクリックすると拡大します。

天養院薬師如来坐像 青雲寺毘沙門天立像 神明白旗神社

                               <以下次号>








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2023年05月08日

第6回鎌倉歴史散策のご案内

 鎌倉稲門会 会員の皆様
 この度、「第6回鎌倉歴史散策」を添付ご案内書およびチラシに表示の通り行うことにいたしました。
 コロナ問題下の行動制限も大きく緩和されました。
長い史跡めぐりと歴史散策の催しの中で、初めて貸し切りバスを利用しての散策と思います。
テーマは「鎌倉幕府と三浦一族」です。
 まだNHKドラマ「鎌倉殿の十三人」の記憶も残る中、十三人のうちの一人和田義盛の直系末裔の当会会員を案内役講師として企画しました。
 訪問先寺社で貴重な寺宝を拝し、講師からは興味ある歴史話が聞けることと思います。
皆様お誘いあわせの上、参加お申し込みをいただきたく、ご案内いたします。

                                       副会長・幹事長 小林敏二


   歴史散策案内・参加申込書.pdf       チラシ.pdf ⇐クリックしてください。





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2023年05月06日

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第6回

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第6回をお届けします。                        副会長・幹事長 小林敏二 

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               落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第6回)

                             和田家30世 和田高明

 和田義盛とはどんな人物だったのでしょうか。三浦市の来福寺にある木像が本人の面影を残しているならば、無骨ながら慈愛に満ちた容貌をしています。大局を摑んで行動力があり統率力に優れているが、細かな事務的なことは苦手だった29代目に通じるところがあります。およそ官吏とは程遠いのです。800年以上を経てもなお筆者の従兄である30代目、そして31代目に風貌が似ています。三浦市の神明白旗神社には青銅製の義盛像(御神体)が安置されていたのですが、何時の頃か失われ行方不明となってしまいました。(盗難でしょう。)

 彼は駆け引きを好まず、感情を繕わず直截的に表して潔さを旨として情を先に立てる。考え方は、あくまで古代武人であったのでしょう。この好例として、建久6年(1195)、頼朝は東大寺再建のために上洛しましたが、三浦党と足利氏の間で騒動が起きます。この時真っ先に義澄の許に駆け付けて気勢を上げた中心に義盛がいたのです。本来ならば、騒乱を鎮める立場だったにも拘らず、です。また、領地経営から経済流通に関して時代の変化に対応できなかった面もあったと思われます。そこのところが、従弟の三浦義村と相容れぬ対立点だったのでしょう。平六義村は、北條氏の意図を推し量ったうえで自らの行動を決する、はた目には優柔不断なところがありました。義村にとっては、義盛は先のことを考えずに独断で行動を起こす粗野な奴と映っていたはずです。義村は、一族内での優位性を先に立てて、真の敵を見誤ってしまったのです。北條氏は、最終的に三浦一族を排除するのだということを。比企氏、畠山氏のことだけでも思考すればすぐに判ることでした。ほかにも千葉廣常、一條忠頼、安田義貞・義資父子の殺害等があります。結城朝光の夢見の話から端を発した梶原氏殲滅などは、巧妙に仕組まれた北條氏の罠でした。義時の妹阿波局まで加わっています。これには義盛も義村もまんまと乗せられてしまったのでした。

 宝治合戦(1247)で三浦宗家が滅亡した後、三浦介の称号は佐原流に認められるのです。佐原流とは義明の末の息子義連の系統なのです。

 頼朝の後を継いだ頼家にも三浦一族は支柱となっていました。三浦一族はあくまで源氏の御家人でした。その中心にいたのが和田氏でした。正治2年(1200)9月、頼家は小坪を遊覧し三浦一族が歓待したときのことです。座興として義盛の三男義秀が水練の芸で鮫を生け捕ってきた褒美に頼家が名馬を与えようとしました。ところが長男の常盛が相撲では負けぬので、名馬は勝者に与えたまえと申し出たので、取っ組み合いが始まりました。なかなか勝負が決せずに、義時が引き分けを提案した途端、常盛が当の馬に跨って駆け去ったので義秀が地団太を踏んで悔しがったという話が残っています。

頼家の子善哉丸(公暁)の乳母は義村の妻でした。将軍家と三浦一族の結びつきは強固だったのです。しかし、北條氏は三浦氏にも懐柔の手を伸ばしてきました。泰時の妻に義村の娘を所望してきたのです。後に矢部禅尼と呼ばれる人です。(後年離縁されています。)比企氏殲滅はこの段どりの後に行われ、頼家は修善寺に幽閉され、頼家に引導を与える役は義村が担いました。北條氏の手先となったのです。次に狙ったのは畠山氏でした。この時ばかりは、義時も父の陰謀であったことを見抜き非難しています。手遅れでしたが。

 7➀1和田義盛公像:来福寺.jpg 7➀2和田義盛旧里碑.JPG 7➀3和田城址.JPG ←クリックしてください。

 写真左から和田義盛像 三浦市・来福寺蔵、和田義盛旧里碑、和田城


                               <以下次号>


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2023年04月30日

「鎌倉歴史散策」事前読物第5回

「鎌倉歴史散策」の事前読物第5回をお届けします。文中の「満昌寺」は、6月11日の催行日には、まず最初に訪ねる予定をしています。                                  副会長・幹事長 小林敏二*********************************************************************************

      落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第5回)                                                   和田家第30代 和田 高明

建久元年(1190)10月、大軍を率いて上洛した頼朝は、後白河法皇から征夷大将軍に任じられることはありませんでしたが、替わりに東国武士10人を任官させたのです。その中に三浦一族の三浦義村(義澄が辞退して息子に譲った)、和田義盛、佐原(三浦)義連の3名がおりました。征夷大将軍に任じられたのは、2年後法皇が崩御してからでした。後鳥羽天皇の勅使から除書受け取りの役を承ったのは三浦義澄でした。彼は比企能員と和田宗実(義盛の弟)を従えて大任を果たしたのです。三浦義明の宿願が果たせたというべきでしょうか。

頼朝と三浦一族との関係は浅からぬものがありました。養和元年(1181)の三浦訪問の後、判っているだけで建久5年(1194)閏8月、9月、翌年正月、8月と頼朝は三浦に来遊して一族の歓待を受けているのです。建久5年9月末、頼朝は義明供養の堂宇建立の為、中原仲業に命じて矢部郷を巡見させています。それでできたのが満昌寺です。そして建久8年(1197)頼朝は義明17回忌に満昌寺を訪れて親しく供養し「今日まで存命していたと思う」と言葉を残し、手ずから躑躅を植えました。(今なお境内に残る。)

頼朝の三浦一族に対する扱いは、複雑なものがありました。再三にわたる三浦訪問を見る限り、ひたすら親愛の情を感じますが、平家追討時の軍の配備を見ると一族を引き裂く意図が明らかです。当時の武士は、一族同党は行動を共にするのが通例でした。また、武士団の構成員の功はその武士団の功とみなされ、その棟梁が行賞されるものでした。木曽攻めで佐原義連や石田為久を義澄と引き離して出撃させたり、為久を義澄を通さずに褒賞したり(近江山室保を与えられた)、壇之浦合戦に際し、義澄には周防国守備を命じ(結果的には義経の命で船戦に参戦することになった)、義盛は範頼の戦目付の立場で豊後国に渡るなど一族はばらばらでした。鎌倉殿を支える東国武士の中で最も財力・兵力を蓄えていた三浦一族は、見方によっては源氏の大いなる脅威ではあったのです。頼朝とその背後にいた北條時政の思惑が三浦党の勢力分散に向かっていたことは否めません。

さて建久10(1199)正月、稀代の英雄源頼朝は生涯を終えますが、その死に関しては大いなる謎が残ります。相模川に架ける橋の竣工を祝った帰りに落馬したことが因で亡くなったことになっていますが、まだ52歳の武士の棟梁が易々と落馬するはずがなく、落馬が事実なら重大な落馬の原因があったはずです。そして何と言っても「吾妻鏡」は最も肝心な1196年から1199年正月まで記録が抜けているのです。

筆者の私見では、ここに北條時政の影を見ることができます。時政も清盛も同じ平氏の貞盛系であり、これは平氏嫡宗家内で主導権奪取の意味もあること。時政の5代前の直方が平忠常の乱を鎮めることができず、追捕使交替で源頼信が忠常を降伏させた過去があり、時政には腹の底で源氏に対する旧敵意識があったと思われます。頼朝に関しては勝気な政子に引きずられて腹を括って奔走したのです。頼朝亡き後は本性をむき出して、比企氏・畠山氏討伐、そして頼家暗殺、将軍廃立の企てもすべて時政の陰謀です。

<以下次号>

 5B2頼朝手植躑躅:満昌寺.JPG 7➀3和田城址.JPG 7D来福寺.jpg

  頼朝お手植え躑躅  和田城址        来福寺


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2023年04月22日

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第4回

6月11日予定「鎌倉歴史散策」の事前連載読物第4回を掲載します。企画のお知らせと参加募集まで、もう少々お待ちください。

                            副会長・幹事長小林敏二

***************************************************************************              落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第4回)                                                         和田家第30代 和田 高明

 頼朝軍が房総半島西岸部を北上する間に、味方するものが続々と集まってきました。去就が危ぶまれていた上総権介千葉廣常も遅ればせながら二万騎の大軍を率いて参会したのです。こうして隅田川まで進軍したときに問題が生じました。衣笠城を攻撃して落城させ、三浦大介(みうらおおすけ)三浦義明を戦死させた畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの秩父党が降伏してきたのです。気色ばんだのは源軍の中枢である三浦党でしたが、頼朝が何とか言いくるめて味方に組み入れたのです。これで海の雄族三浦党、陸上最大勢力の秩父党が頼朝軍を支えることとなりました。

 頼朝は鎌倉に入ると、先祖ゆかりの八幡宮(由比若宮)を遷座して(鶴岡八幡宮の現在地に)都市建設に取り掛かります。1020日、富士川の合戦で平家軍を打ち破った東国軍は、3日後の論功行賞で三浦義澄に三浦介(みうらのすけ)の称号を許し、彼が三浦党の惣領であることを認可しました。また11月には侍所を設置してその別當に和田義盛を、所司に梶原景時を据えました。これで幕府御家人を統べる義盛と、三浦党をまとめる義澄の二重体制ができ、三浦党に複雑な構造が出来上がったのです。

 寿永2年(1183)末、平家打倒出撃反対の中心人物千葉廣常が、頼朝の命を受けた梶原景時に誅殺され、続々出陣していった東国武士は、翌正月、京都を占領していた木曽義仲を撃破しました。義仲の首を挙げたのは、三浦党の石田為久(相模石田荘)でした。生け捕りにされた巴御前が鎌倉に引き立てられ、義盛に預けられたことで、豪勇で名高い義秀が巴の子であるとの俗説がありますが、彼は既に誕生しております。

ついで一の谷合戦では義経に従った三浦義連らが活躍。そして元暦2年(1185)3月、壇之浦合戦にて平家を滅亡させました。最後の決戦の時、三浦義澄は周防国残留で連絡路維持を命じられましたが、義経によって道案内を託され、戦闘に参加することができました。一方義盛は、源範頼の戦目付として豊後に渡り、直接海戦には参戦していません。しかし、渚から盛んに遠矢を射かけました。3町ほどなら命中させたというからすごいものです。

源平合戦後逃亡していた義経の居所が知れたのは、文治4年(1188)2月のこと。翌年、頼朝は全国に義経・藤原泰衡追討の軍事動員をかけました。恐れをなした泰衡は義経を襲い自殺に追い込むも、頼朝自ら藤原氏打倒に出陣。藤原軍は防戦空しく敗れ、泰衡は部下の裏切りにあって殺されました。頼朝はかつて頼義が安倍貞任を討った厨川に進撃し、自分が頼義の正統な後継者であることを示したのです。

進軍の途中、和田義盛は頼朝直属の大手軍にいましたが、阿津賀志山(福島県伊達郡国見町大木戸の厚樫山)で西木戸國衡(泰衡の兄)を打ち破り、武士の情で逃がすということがありました。これを見届けた畠山重忠配下の大串次郎が、國衡を追尾して討ち取ったので、怒ったのは義盛です。一族共々頼朝の幕下を離れ、奥州津軽の安東氏に食客しようとしたのです。驚いた頼朝は義盛をなだめ、岩見澤の地(秋田県山本郡三種町下岩川字岩見沢)に一族数名を残して鎌倉に帰着したのです。義盛の男気を表すエピソードです。


 5B1元八幡.JPG 6A薬王寺跡、杉本義宗・三浦義澄墓所.JPG ←クリックしてください。

 元八幡(材木座) 薬王寺墓所(横須賀・大矢部)

                                                           <以下次号>









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2023年04月15日

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第3回

6月11日に予定される「鎌倉歴史散策」の事前連載読物第3回です。

目下、担当役員が歴史散策の催行に向けて準備を進めています。

どうぞご期待ください。

末尾の催行予告もご覧ください。

                           副会長・幹事長 小林敏二

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           落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第3回)

                                                   和田家第30代 和田高明

 安元3年(1177)春、三浦義澄は番役勤仕の為に上洛しましたが、間もなく鹿ケ谷の事件が起きました。平氏打倒の企ては失敗に終わりましたが、平氏と後白河院の間に亀裂が走っていることが明白となり、義澄にとっては希望の持てる状況でした。治承3年(1179)清盛はとうとう後白河院を幽閉して院政を停止させ、翌年、以仁王が平氏追討の令旨を全国の源氏に下す事態となったのです。しかし5月、挙兵した以仁王・源頼政は平氏の追手によって宇治で討死しますが、東国武士の奮戦によって平家方が勝てただけで、義澄たちは平氏本体の弱さを実感します。この間三浦では、治承3年6月、己が身の不運に絶望した杉本太郎義宗が自刃して果てています。

 一方、治承4年(1180)4月下旬には以仁王の令旨が伊豆の頼朝の許に達し、衣笠の三浦義明の許にも届けられました。このとき義明は風邪気味で伏っていましたが、佐殿からの使いに身を清め白装束に立烏帽子姿で令旨を受けたのです。6月、義澄は京都を発ち伊豆配流の頼朝に面会の後三浦に帰国。頼朝と三浦党の連絡は相模湾海路で行われました。

 満を持して、同年8月17日頼朝は挙兵しましたが、その後齟齬が目立ちました。緒戦で伊豆目代山木判官兼隆を討ち取ったものの、降り続く雨に禍されて佐々木兄弟の参着が遅れ、酒匂川の増水のために最も頼りにしていた三浦党は渡ることができなかったために石橋山の合戦に加わることもできず、頼朝の行方生死が不明となったのです。石橋山の合戦では、真田与一義忠(岡崎義實の長男)が討死しています。(2324日)

 三浦党はやむなく衣笠城に引揚げ平家軍の来襲に備えることとなりました。途中、畠山軍と由比ヶ浜で一合戦ありましたが、衣笠城で軍議が開かれました。三浦義澄・和田義盛は要害の怒田城に籠るべしと主張しますが、棟梁の三浦義明は三浦党を代表する衣笠城で平家軍を引き受けるべしと決したのです。かくして8月26日、河越重頼の総采配の下に押し寄せた平家軍と三浦党との間で合戦が行われましたが、終日の戦で城は陥ちず、夜になって軍議が行われました。

義明は、佐殿の生死が不明だが生きていると信じてお尋ね申せ、そのため自分一人を残して城から脱出せよと厳命したのです。三浦党の面々は泣く泣く夜陰に紛れて城から抜け出しました。一行は浦賀水道を横切って猟島に集結、後続を待つことになります。翌日、平家方の秩父党の総攻撃で衣笠城は落城。義明は、隙をついて城を脱出。先祖の墓所である大矢部の圓通寺の見える場所で馬が歩みを止めたため、先祖の御魂のお告げと解して、そこで腹を切ったのです。遺骸は息子の大多和三郎義久父子に託され、敵の退出後甲州の三浦寺に運ばれ納められました。一方、石橋山を脱した頼朝は、しとどの岩屋から富士東麓を抜けて道志道に入り、八菅山で船の準備を整えると中津川・相模川を下って江ノ島に至りました。こうして頼朝は須ノ崎に渡ると須崎明神に願文を収め、猟島で待つ三浦党や北條らと再会、集結となったのです。9月3日には一旦東岸に出て、三浦党は長狭常伴を撃破、義宗の無念をも雪いだのでした。この時蓬島に頼朝を匿ったのは太海の名主平野仁右衛門で、その恩賞に永代島守を認められました。現在の仁右衛門島です。<以下次号>

 5➀1三浦義明公木像:満昌寺.jpg 5➀3満昌寺.JPG 5A腹切松公園の腹切松.JPG 

 三浦義明像(満昌寺蔵)満昌寺(横須賀市大矢部)義明の腹松(大矢部・腹切松公園)

              ↑

 予告チラシpdf  ←クリックしてください。




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2023年04月09日

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第2回

 6月11日催行予定の「鎌倉歴史散策」の事前連載読物第2回です。

上記歴史散策は4月下旬ころにご案内と参加募集ができる予定です。

末尾の予告もご覧ください。                        

                          副会長・幹事長 小林敏二

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    落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第2回)

                            和田家30世 和田高明

 後三年合戦後、源氏の勢力は関東一円に広がりを見せましたが、惣領家の勢力は凋落するばかりでした。義家の次男義親が西国で乱をおこし、三男義国は常陸国で叔父義光と私戦を演じ、惣領となった四男義忠が暗殺されてしまったのです。義忠暗殺の犯人と目された義綱は追討を受けて滅亡しましたが、真犯人はその弟の義光でした。彼は真実の露見を怖れて東国に下ったのです。このように源家の内紛で勢力は衰えました。その後惣領となった為義も都での勢力挽回はなりませんでした。しかし、為義の嫡男義朝は、東国において源氏勢力の回復に努め、それを全面的にバックアップしたのが三浦一族でした。上総・安房で両者の所領が隣接し、三浦義明の娘が義朝に嫁いで後に鎌倉悪源太と称される義平が生まれるなど、地縁血縁の関係で、源氏と三浦氏は共存関係を深めていったのです。義朝は千葉一族の内紛を機に上総に勢力を伸ばし、波多野氏の娘を嫁にして西相模にも勢力を伸ばしました。波多野・中村との血縁関係は三浦氏も並行して行われました。

 源義朝と共に大庭・鵠沼郷に圧力を加えた三浦党は、杉本義宗(三浦義明の長男)を筆頭に鎌倉に進出、杉本城を根拠地としたのです。現在の杉本寺の地です。

 東国に地盤を築いた義朝は勇躍上洛して行きました。しかし、入れ違いに東国に戻ってきたのは、義朝の弟義賢でした。彼は秩父党と共に急速に武蔵国に勢力を伸ばしてきたのです。苦労して義朝が拡げた勢力範囲を義賢が切り取る形になったのです。後を託されていた義朝の嫡男義平は、出陣すると電撃的に大蔵館(現在の埼玉県嵐山町大蔵)の義賢の首を挙げてしまいました。

 三浦氏は秩父氏と強固な血縁関係を結んでいましたが、源氏との関係を重視して、敵対する関係となってしまいました。以下の系図にある通りです。


┌―――――――――三浦義明 ――┬―杉本義宗―――和田義盛

|          ║      ├―三浦義澄―――三浦義村

 └―女(重弘母)┌― 女(義宗母) └― 女(重忠母)

         ├―秩父重隆      

・秩父重綱――┴―秩父重弘―――――畠山重能―――畠山重忠


 秩父襲撃の時、三浦党を率いていたのは義澄でした。義明も義宗も共に直接手を下し難い繫がりだったからです。

次に三浦党が狙いを定めたのは、安房東岸の長狭氏でした。安房西岸から進出を図る姻戚の安西氏に助成して勢力拡大を図った三浦党は、長寛元年(1163)秋、房総半島を回り込んで朝夷郡から敵前上陸を試みたのです。しかし、事前に察知していた長狭常伴は矢の雨を見舞い、先頭を走っていた杉本太郎は格好の標的となってしまいました。作戦は失敗し、瀕死の重傷を負った太郎義宗は再起不能となったのです。彼はこれから16年後、自刃して果てます。このようなことがあり、三浦党の次代惣領は、太郎義宗ではなく、次郎義澄に移ったのです。和田一族の悲劇はここから始まりました。


源氏略系図

・頼信―――頼義―┬―義家―┬―義宗[早世]

         |    ├―義親―――為義―┬―義朝―――頼朝

         |    |         ├―義賢

         |    |         └―行家

         |    ├―義国―┬―義重(新田)

         |    |    └―義康(足利)

         |    └―義忠

         ├―義綱

         └―義光―┬―義業―――昌義

              ├―義清―┬―清光(武田・一條)

              |    └―遠光(秋山・小笠原・南部・安田)

              └―盛義(平賀・大内)


  4A1衣笠城址.JPG 4B1鐙摺城址.JPG  三浦一族系図.pdf   
 衣笠城址(横須賀市衣笠町)葉山町堀内  
                                  ↑
            予告チラシ2023.4.9.pdf    ← クリックしてください。

                                <以下次号>

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2023年04月01日

「鎌倉歴史散策」事前のお知らせ

会員の皆様へ

昨今のコロナ問題の沈静化に伴い、当会の活動もいよいよ活発化の様相を見せてきました

「鎌倉歴史散策」は、従来春秋の年2回開催してきましたが、これもやっと軌道に乗りそうな 状況になってきました。

この度のご案内は6月11日(日)に予定する「第6回鎌倉歴史散策」の予告です。

現在実施細目を策定中ですが、テーマを「(仮)三浦一族と鎌倉幕府」とし、鎌倉殿の十三人のうちの一人「和田義盛」を中心に、その時代の人物、出来事にかかわる寺社・史跡を訪ねます。

案内・講師は、和田義盛第30代末裔の和田高明さん(当会会員、昭和46年法学部卒。本稿筆者小林とは同級生でした。)です。

非公開施設や寺宝も拝観できるかと、期待も持てます。

実施細目の策定後には改めてご案内と参加募集をいたしますので、どうぞご期待ください。

なお実施に先立ち、講師から参考資料として「読物」を寄稿いただきましたので、以下に紹介します。以後、数回にわたり連載します。

  予告チラシ2.pdf ←クリックしてください (副会長・幹事長 小林敏二)


************************************************************                                           落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第1回)

                            和田家30世 和田高明

 和田一族は、もともと三浦氏です。太古の頃より三浦半島で暮らし海洋民族として広く交易をしていました。半島で最大の弥生遺跡といわれている赤坂遺跡(京急「三崎口」駅すぐそば)でも暮らしていたのかもしれません。久里浜に残る吉井貝塚は三浦氏の怒田城跡でもあるので、継続して三浦一族が生活していた可能性があります。歴史学の上では、三浦氏は平家の家系であることになっていますが、系統説が4通りも5通りもあるということ自体が、強引に系図に繋げた証と云えます。三浦一族は、半島在地の豪族「海の雄」だったのです。

 歴史の中で顔を出してくるのは、「前九年の役(奥州12年合戦)」(10511062)からです。三浦太郎が一族を率いて源頼義に従って功を挙げたことにより、正式に三浦の姓を賜ったとなっております。三浦公義と為通が参戦。為通は衣笠山に城を築き、大矢部に圓通寺(廃寺)を開基。

 次に登場するのは「後三年の役(後三年合戦)」(108387)でのことです。この合戦は、源義家が清原氏の内紛に介入して奥州を制圧し、藤原氏が基盤を築くこととなった戦です。これには三浦為継・義継父子が参戦しています。(「為道」が義家の一字を賜って「義継」と改名)この時の戦では、いくつものエピソードが語られております。「納豆起源譚」「日本初の兵糧攻め」「新羅三郎の秘笛伝授譚」「雁行の乱れ」などがありますが、最も知られているのは、鎌倉権五郎の武勇伝でしょう。金沢の柵攻撃に先頭を切って攻め込んでいた三浦平太郎為継と鎌倉権五郎景正に、敵から矢の雨が注がれ、敵方の鳥海弥三郎の射た矢が権五郎の目を射抜いたのです。大抵ならばこれで昏倒してしまうところですが、権五郎は、弥三郎を追い回して討ち取り自陣に戻ってくると、「さあ抜いてくれろ」と仰向けに寝たのです。彼を気遣って戻ってきた為継が、片手を顔に当て矢を抜こうとするが抜けない。さればと、両手で引き抜こうと履物を履いたまま顔を踏まえたところ、景正はいきなり為継の草摺りを引き寄せ、寝ながら太刀を抜きあげて突こうとしたので、驚いた為継は、これはどうしたことかと尋ねたところ、弓矢に中って死ぬのは勇者の本望だが、生きながら土足で面を踏まれる屈辱には耐えられぬので刺し違えて死のうというのです。為継は、なるほどそれは理の通りであると謝罪し、皆で顔を抑えて、矢を抜いたという話が残されています。この権五郎は軍陣外科の祖と仰がれて、鎌倉市長谷の御霊神社に祀られています。別名「権五郎神社」。現地の横手市金沢(かねざわ)にある金沢公園には「景正功名塚」が残されています。

一方、金沢の柵の戦で景正と共に先陣を切っていた為継には矢が中らなかったのは、普段から信心している金峯山不動尊が甲冑に身を包んで、為継に飛んでくる矢をいちいち受け止めて庇護していたという話として伝えられています。横須賀市の衣笠山にある大善寺の本尊が「箭執(やとり)不動」とか「箭除(やよけ)不動」と称される不動尊なのです。為継・義継は大矢部に清雲寺を開基。

*由比若宮:奥州十二年合戦に際し、源頼義は鎌倉の地で兵を募ったが、鎌倉景道に案内させて由比郷に石清水八幡宮を勧請。この地が由比若宮(元八幡)である。<「前太平記」より> 

 1@2赤坂遺跡.JPG 1@1赤坂遺跡:住居址 - コピー.jpg 2@1厨川八幡宮.JPG 3C1三浦爲継像:満昌寺.JPG 

   赤坂遺跡(三浦市)   同左巨大住居跡(同)         厨川八幡宮(盛岡市)      三浦為継像(満昌寺蔵)


    <以下次号>





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2022年03月21日

「第5回鎌倉歴史散策」報告記

鎌倉歴史散策

北條義時ゆかりの地を訪問

 313日(日)、汗ばむ陽気の中、鎌倉歴史散策が無事開催されました。今回は、NHKで放映中の大河ドラマ、「鎌倉殿の13人」の主人公、北條義時ゆかりの地を訪ねる散策で、会員の草間久美さん(昭和60年文学部卒)が講師を勤めて下さいました。

参加者は草間さんを含めて41名。鎌倉生涯学習センターでの座学の後、940分にスタートし、鎌倉八幡宮を抜けて、源頼朝の墓所を階段下から仰ぎ、隣にある北条義時法華堂跡地へ。現在は、法華堂跡が杭とロープで表示されているだけですが、しばし当時を忍び、北條義時が建立した薬師堂が起源と言われる覚園寺へと向かいました。

覚園寺では、早稲田大学の交友でもあるご住職がご案内にたち、ユーモアを交えてご説明下さり、熱心に質問する参加者もいらっしゃいました。さらに今回は特別に、代々のご住職の墓所にも案内していただきました。

2019年に、女性の会で覚園寺を訪問した際は、お弁当をとって食事も楽しんだのですが、今回は、コロナ禍ということもあり、食事は無しで12時に解散となりました。


DSC_8122.JPG DSC_8123.JPG DSC_8126.JPG ←クリックすると拡大します         座学風景         義時法華堂跡   宝治合戦で敗れた三浦泰村の墓


DSC_8134.JPG      DSC_8133.JPG 

ご住職から境内の案内・説明を受ける  参加者は41名  

                        (文:大久保真由美、写真:小林敏二)

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2018年11月29日

「第4回鎌倉歴史散策」実施報告

秋の鎌倉歴史散策開催報告

1117日(土)に第四回鎌倉歴史散策「三浦三崎に『頼朝・花の三御所』を巡る」を開催しました。

 事前の雨予報から一転し観光日和に恵まれ、23名が京急三崎口駅に集合しました。

まず「桃の御所跡」の「見桃寺」で本堂特別拝観と北原白秋自ら除幕した歌碑を見学し、その後頼朝や実朝などがしばしば訪れ宴を催した歌舞島を訪れました。近年の埋め立ての影響で昔のイメージが浮かばない光景となったのが残念ですが、頼朝が日頃のストレスから解放されたであろう風光明媚な三浦の海を見て、頼朝を始めとした将軍を三浦一族がもてなした思いに心を馳せました。

 見桃寺.JPG 白秋歌碑.JPG 解説風景.JPG 「歌の町」歌碑.JPG

    見桃寺       白秋歌碑      解説風景    「歌の町」歌碑

その後、早めの昼食を三崎名物のマグロ料理店でゆっくりと味わいました。本マグロ・めばちマグロの刺身、竜田揚に加え、卵・胃袋・心臓などの珍味も味わい、本日のメインイベントとなったのではないかと思っております。

 午後は、三浦一族の祈願所であった海南神社にお参りし、「桜の御所跡」である本瑞寺に参拝しました。最後に、「椿の御所跡」に頼朝の側室であった妙悟尼(吾妻鑑に登場する亀の前の法号)が建立した「大椿寺」を訪れました。まずお寺の境外にある妙悟尼のお墓をお参りした後、大椿寺本堂に昇殿してご住職からお寺の由緒と開基の妙悟尼と北条政子の関係などのお話や、多くの仏像、見事な杉戸に描かれた椿や唐獅子の逸話をお聞きできました。ご参加の皆さまには楽しい一日を過ごしていただけたかなと思います。


 参加者の皆さん.JPG (写真はすべてクリックすると拡大します)

  参加者の皆さん

                          (案内役:西山博子、高橋健治)

 次回は来春開催すべく計画いたします。

                         (文:高橋健治、写真:小林敏二)

    
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2018年10月01日

東村山稲門会との交流会報告

東村山稲門会との交流会の開催報告


 921日(金)に東村山稲門会の皆様15名を、鎌倉にお迎えし交流会を開催しました。

東村山稲門会の「ウオーキングの会」の皆さまが今まで2回ほど鎌倉を訪問された際に、鎌倉の史跡をご案内し、今回が3度目となりました。たまたま私の兄がこの会の世話人であったため、案内を引き受けた次第です。1回目は北鎌倉の禅宗寺院・寿福寺・鶴岡八幡宮の案内、2回目は腰越の満福寺から長谷寺・高徳院他長谷地区の案内をしました。

 今回は、午前中に史跡案内をして、昼食を兼ね両稲門会の交流会を開催してはと提案したところ、両稲門会の会長はじめ役員の方々からのご賛同が得られ実現しました。

 午前の歴史散策では、生憎の雨天でしたが、宇都宮辻子幕府跡・若宮大路幕府跡・大仏次郎茶寮などを紹介し宝戒寺に向かいました。白萩・白のヒガンバナに迎えられ、本堂内を拝観し、次いで田楽辻子のみちを通り杉本寺を拝観しました。本尊の三体の十一面観音菩薩をはじめとした仏像を拝み、杉本城跡の歴史など興味を持っていただけたと思います。

その後、浄妙寺を拝観し、最後に報国寺を訪れました。竹の庭ややぐらを楽しんでいただけたと思います。午前の散策には、鎌倉稲門会から江副副会長、稲田明子相談役、小林事務局長もご参加くださり、交流を深めていただきました。

 13時半から鎌倉駅前の「鯉之助」で昼食会を兼ねた交流会を開催しました。東村山稲門会の大内会長他午前の参加者全員の参加のもと、兵藤会長の歓迎の挨拶から始まり、御代川の美味しい御膳とビールをいただきながら懇談を楽しみました。途中、東村山稲門会の大内会長他のご挨拶があり、1時間半の懇親が終了しました。鎌倉稲門会からは会長・小泉副会長・御代川副会長・小林事務局長・坂常任理事と小生の6名が参加しました。

 東村山稲門会が数年前に「女子会」を発足するため、「女性の会」の先輩である鎌倉稲門会に相談に来た現東村山稲門会の滝川副会長が今回、当時相談に乗ってもらったという田村前副会長・稲田明子さん・鈴木さんにお礼をいえればとの連絡が事前にあり、稲田明子さんが午前の散策の折に交流をいただき、午後の懇親会では坂さんがいろいろと女性の会の状況をお話しいただいたとのこと、大変に良い交流になったと思います。


   2018_09212018鎌倉ほか0077 (002).jpg  IMG_2767 (002).JPG ← クリックすると拡大します

      報国寺にて      鯉之助にて


                           文:高橋健治(幹事、歴史散策担当)

                          写真:東村山稲門会からのご提供

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2018年05月07日

「第3回鎌倉歴史散策」実施報告

春の「鎌倉歴史散策」開催


428日(土)10時天候に恵まれ、藤沢駅に29名の参加者が集合し、「時宗総本山・遊行寺と藤沢宿の寺社を巡る」散策がスタートしました。まず、遊行寺本堂で時宗宗学林学頭の長澤昌幸師の時宗と遊行寺に関する大変に興味深いご法話をお聴きし、その後宝物館の遠山元浩館長のご案内で「企画展・弥陀と観音」を拝観しました。その後境内を2グループに分かれ、鎌倉稲門会員(鎌倉ガイド協会員)2名でご案内し、遊行寺の参拝を楽しみました。

遊行寺境内で昼食をとった後、昨年オープンした「ふじさわ宿交流館」を見学し、江戸時代のにぎやかな藤沢宿のジオラマや、当時の宿場の様子が判る品々の展示を見た後、源義経が祀られている白旗神社に参拝し、近くの義経首洗い井戸で、義経の首が藤沢に辿りついたと伝わる伝承の謎を考え、義経を偲びました。最後に江戸時代の藤沢宿の小松屋の飯盛り女の墓がある永勝寺にお参りし、藤沢本町駅で解散となりました。


 DSC_5179.JPG DSC_5180.JPG DSC_5183.JPG 
    遊行寺総門           遊行寺本堂            宝物館
 DSC_5191.JPG ←写真はクリックすると拡大します。
    参加者の皆さん                                (文:高橋健治、写真:小林敏二)
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2018年03月15日

「第3回鎌倉歴史散策」のご案内

当会の恒例行事「鎌倉歴史散策」は、昨年11月に予定されましたが、天候不良で中止となりました。
このたび別紙のとおり再度の企画がされました。
皆様多数の方にご参加いただくよう、ご案内いたします。

第3回歴史散策案内書案(再行改訂).docx ←クリックしてください。


鎌倉稲門会
事務局





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2017年09月16日

第3回「鎌倉歴史散策」のご案内

鎌倉稲門会会員の皆様

第3回「鎌倉歴史散策」が11月18日(土)に開催されることになりました。

今回は「藤沢遊行寺」他です。

今回も訪問予定先の寺社等から、特別なご配慮をいただいたそうですから、またとない拝観・見学が

期待できそうです。

下の「第3回鎌倉歴史散策案内書」をご覧いただいたうえ、多数の皆様が参加申し込みをされるよう、ご案内します。


鎌倉稲門会 事務局




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2017年04月10日

第2回「鎌倉歴史散策」のご案内

 当会の長年続いた「史跡めぐり」も、昨秋来装いも新たに「鎌倉歴史散策」として再開され、今回第2回目を迎えます。


 実施日は4月22日(土)。講師は、当会幹事で鎌倉ガイド協会元会長の橋健治(S42理工)さんと、同じく当会会員で同協会会員の西山博子(S42文)さんです。


 横須賀市芦名の浄楽寺で、運慶作国重文指定の仏像の特別拝観が予定されています。なかなか拝観できる機会は少ないようです。その他見どころ多数です。


 参加費、集合場所その他詳細は、添付ご案内をお読みのうえ、参加お申し込みをいただきますよう、お知らせします。



 お申し込みは、添付「参加申込書」に必要事項を記載し、事務局宛メールで、またはFax、電話でお願いします。(申込書には「4月12日までに」とありますが、多少過ぎても差し支えありません)


鎌倉稲門会 事務局


 第2回鎌倉歴史散策のご案内(最終版).docx ← クリックしてください。





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2015年04月30日

第55回 史跡めぐり 平成27年4月18日(土)

  4月18日
 第55回史跡めぐり報告 平成27年4月18日(土)

 絶好の史跡めぐり日和のもと、今回内海恒雄講師にご案内いただいたのは、逗子市である。コースはJR逗子駅を起点に、亀岡八幡宮(社殿)→延命寺(本堂と本尊の大日如来、三浦道香の墓)→昼食をはさんで六代御前墓→逗子市郷土資料館→国史跡長柄桜山古墳群である。

 まず向かったのは、亀岡八幡宮。創建年代は不明。地形がなだらかな岡で、亀の背中のようであったことから、鎌倉の「鶴岡八幡宮」に対して、「亀岡八幡宮」と名付けられたという。ここは、本殿と拝殿見比べながら見られる稀有な例だそうだ。
01.jpg 02.jpg 03.jpg (写真はクリックすると拡大されます)

 拝殿で一同礼拝の後、向拝に施された見事な鶴や狛犬・龍などの彫刻、あるいは海老虹梁や木鼻などの説明を受けた。また、柱の角に施された手の込んだ面取について、ここから「几帳面」という言葉が生まれたという話もあった。境内社萬栄稲荷や平和塔、庚申塔などの説明も受けた。
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 次に向かったのは、延命寺。
 史実としての創建は不明だが、寺伝では、天平年間に行基が延命地蔵尊を安置したことが始まりという。後、弘法大師がこの地蔵を納める「厨子」を作ったことから、この地が「厨子」と呼ばれるようになり、近年「逗子」の文字が使われるようになったという。このことから、当寺は逗子の地名発祥の寺とされている。本堂で、ご本尊の金剛界大日如来を拝し、曼荼羅も拝見できた。鎌倉時代には三浦氏が当寺を祈願寺としたが、後北条氏に攻められ、三浦道香主従が、ここで自刃したと解説があった。
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 自由昼食後、六代御前の墓伝説地に向かった。平家最後の嫡男・平高清が、平正盛から数えて六代目にあたることから六代と呼ばれるそうだ。壇ノ浦の合戦後、頼朝の命で平氏残党探索が行われて捕えられたが、文覚の助命嘆願により許された。しかし頼朝の死後、文覚も謀反の疑いで流刑となり、のち六代は田越川で斬刑に処されたという。
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 次に訪ねたのは、逗子市郷土資料館。徳富蘆花が逗子を執筆活動の拠点とした明治30年頃、定宿であった「柳家旅館」跡に徳富蘆花碑が建つ。この碑から桜山の丘陵を行くと、蘆花記念公園が広がり、その一角に徳川宗家16代当主徳川家達の別荘だった建物がある。郷土資料館はここに設置された。相模湾が一望できる眺望のよい所だ。館内には、市内の遺跡出土品や民俗資料、逗子ゆかりの文学作品関連品が展示されており、学芸員の解説でつぶさに見学することができた。
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 郷土資料館の裏手から緩やかな山道を登ると、「長柄桜山古墳二号墳」と呼ばれる前方後円墳がある。面積は8千uを超える規模で、そこだけ盛り上がって見える。4世紀に造られたらしい。当地は、畿内方面から相模を通り、房総に抜ける交通要衝と考えられることから、有力首長が存在した証左と考えられるそうだ。ここから10分ほど歩くと、1号墳がある。ロープが張られているので、立ち入りはできないが、その形ははっきりとわかる。二つの古墳は、盗掘もされず、土器・埴輪などの出土品もあり、国の史跡にも指定された貴重な遺跡だ。ここで本日の行程は終了。
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内海講師から本日のまとめの話をいただき、午後4時過ぎ解散となった。
         
(文・写真 小林敏二) 
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2015年03月12日

第55回 史跡めぐり ご案内

会員各位                                  平成27年3月12日
                                  早稲田大学鎌倉稲門会会長
                                          大江 保
 春の行事“第55回史跡めぐり”のご案内を致します。
鎌倉と共に古都保存法に守られている逗子には、鎌倉にない史跡がいろいろあります。
鶴岡八幡宮に対して亀岡八幡宮があり、延命寺では本堂で大日如来などを特別拝観し、
三浦道香の墓もあります。徳川家の別邸であった郷土資料館では徳富蘆花・蘇峰や出土品を見て、
長柄桜山古墳群の大きな前方後円墳2基を回ります。ふだん公開されない所もあり、
お知り合いやご家族共々のご参加をお待ちしております。
       記
■日時:平成27年4月18日(土) 10時〜16時
■集合:午前10時 JR逗子駅前 (東口側)
■雨天決行:(雨天はコース変更あり)
■講師:内海恒雄氏
■コース:逗子駅 − 亀岡八幡宮(社殿)− 延命寺(本堂=大日如来他、三浦道香墓)− 昼食(飲食店) − 
六代御前墓 − 逗子市郷土資料館 − 長柄桜山古墳群(国史跡)−「葉桜」(バス乗車)− 逗子駅(解散)
■参加費:1名あたり1,000円 
■昼食:各自飲食店利用
■申込み・問合せ:鎌倉稲門会事務局 電話・FAX 0467−55−9771
     褐苟辮内 (10時〜16時 土日・祝日を除く) 担当 広田
■申し込み締め切り:4月10日(金)

ご出席のかたは、同伴を含めた人数、住所・電話(携帯番号のあるかたはその番号)を
FAX,または電話にてお申し込みください。(欠席の方は不要です。)
メールで上記の必要事項をご記入いただきお送りいただいても結構です。
    事務局メールアドレス: wasedakamakura@yahoo.co.jp
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