2023年05月27日

「第6回鎌倉歴史散策」事前読物第9回(最終回)

「第6回鎌倉歴史散策」事前読物第9回(最終回)をお届けします。

これまで連載をお読みいただきありがとうございました。

いよいよ6月11日に「第6回鎌倉歴史散策」が催行されます。

この連載を予備知識として散策いただくと、さらに興味も増すであろうと存じます。

                            副会長・幹事長小林敏二

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              落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第9回)

                             和田家30世 和田高明

南部に逃れた兄弟たちは先に逃れていた畠山の子孫(浄法寺氏)の許で家臣として血脈を繋ぐことができました。あれこれあって、いずれも南部藩士として明治維新を迎えます。畠山氏は、当初南部氏の客将でしたが、何時の頃からか南部の家臣となりました。有力な重臣でしたが、160001年の岩崎の陣での落ち度を咎められて改易され(その家臣であった我等和田一族も)、新田開発の功で御家再興を認められるまで数十年にわたって浪々の身として辛酸をなめています。これは、南部氏の外様粛清の犠牲になったものです。畠山は東北潜行時に浄法寺と名を変え、浪々の身となってからは松岡と更に改名しています。我らは、浪々の身となってからは大森と名を変えておりました。

*岩崎の陣:豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったために所領没収となった豪族の中に葛西晴信・大崎義隆・和賀義忠・稗貫廣忠等がいた。1591年、南部信直に対して起こした九戸政實の乱終結後、秀吉の奥州仕置に不満を抱いた和賀氏・稗貫氏等は、仕置軍引揚げの後に蜂起したが鎮圧された。1600年になって、領土拡大を企てる伊達政宗に扇動された和賀忠親が、旧領奪回をもくろんで岩崎城を拠点に南部氏に対して起こした反乱は、翌年南部利直によって制圧された。この岩崎城攻めの際の落ち度を咎められて浄法寺氏は改易となった。

 ほかの三浦一族の行く末について。三浦介を継承した佐原流は戦国大名に成長し三浦義同(道寸)に至りますが、北條早雲に攻められて命脈を断たれます。終焉の地は油壺の新井城でした。また、佐原流の分かれである芦名系は、奥州合戦の恩賞として与えられた会津に勢力を張り戦国大名として東北に名を馳せますが、伊達政宗に敗れ果てるのです。極め付きは石田三成です。木曽義仲を討ち取って近江山室保(長浜市石田町)を与えられた石田為久の子孫は三成に至りますが、最期は国民の知る所です。三浦一族は実に滅びの一族といえるかもしれません。

和田合戦の後日譚を一つ。『古今著聞集』にある逸話です。

和田合戦から半年ほど後、元旦のことだったらしい。年頭の椀飯(おうわん)の儀式に、御家人多数が幕府侍所に参集したときのこと。三浦義村も、当然出仕することになっていましたが、義村の出仕はやや遅れていたようです。日頃から義村の座と決まっていた上席が、下総守護千葉介成胤の子、若年の胤綱によって占められていたのです。そこに現れた義村は思わずかっとなり、

「下総の犬は、臥所(ふしど)を知らぬな」と睨みつけました。

端に振り向いた胤綱は、即座に気色も変えず言い返したのです。

「三浦の犬は、友を啖(くら)うなり」

れが同族を裏切った三浦党に対する、一般御家人の感情だったのです。

 最後に奇跡?を。

わが曽祖父は戊辰戦争の時、南部盛岡藩の兵士として、官軍に寝返った秋田久保田藩と戦いましたが、鉄砲玉に中ることなく生き残っています。また、第二次世界大戦においては、わが父は海軍で朝鮮航路の商船に乗って行き来していましたが、船が機雷に触れて沈没したものの無事で、沖縄戦線に行かされずに済みました。父の兄は矢張り海軍で激戦のラバウルに行きましたが無事帰国を果たしています。弟は陸軍で樺太50度線を守備し、ソ連と戦いながらも生還。父の甥(和田家30代)と母方の従弟は志願して予科練に行きましたが、出撃前に終戦となり生還。このように5人出征して誰一人弾に中ることなく無事生還したのです。先祖から一貫して不動尊・毘沙門天のご加護が続いていると申せましょう。

<了>


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2023年05月24日

第51回ゴルフコンペ報告

   4年ぶりのコンペ開催 やはりリアルはいいね 鎌倉稲門会ゴルフ同好会

 コロナは収束模様、連休明けの5月10日(水)4年ぶりのコンペ(第51回)を鎌倉パブリックゴルフ場で開催し14名が参加した。

「お元気でしたか?」「あの方のお名前は?」「今年初めてクラブを振るよ」「久しぶりだから、練習場に通ったよ」「来週、コンペがあるから練習のつもり」と、コンペの始まる前から優勝を目指した舌戦の開始。

 新村幹事からルール説明のあと、全員の集合写真と組毎の写真を撮っていよいよスタート。   写真1改.jpg 写真2改.jpg 写真3改.jpg 写真5改.jpg 写真4改.jpg 一番ホールティ―ショットで220Y地点の黄旗越えが2名。各カートではリアルに全員のスコア状況が把握できる。5番ホールまでパープレイが2名。レベルが高い。

 初参加の川喜田 尚氏(S55年政経)は「このたび第51回鎌倉稲門会春のゴルフコンペに初めて参加させていただきました。鎌倉稲門会からいろんな活動のご案内をいただいてもなかなか予定があわず、うらやましく眺めていました。今般のゴルフコンペは4年ぶりの開催とのこと、一度プレーしてみたかったゴルフ場、日程的にも大丈夫と条件がそろって楽しみで仕方がないエントリーでしたが、なんと体調を崩し泣く泣くいったんはキャンセル。あきらめきれず新村幹事にお願いし松本代表のご理解も得てリタイアありの条件付きでお仲間に入れていただきました。当日は、これ以上ない絶好のゴルフ日和。諸先輩の楽しく貴重なお話しやスーパープレーの数々に刺激され、また皆様にお気遣いいただき、おかげさまで18ホール完走できました。スコアも5050100点満点(?)。体力回復してまた次回参加させていただければ幸いです。本当にありがとうございました。」との感想。

 ゴルフは楽し。稲門会は楽し。森 一到さん(S59政経)がネット69.4グロス773641)で優勝。ベスグロも獲得。次回の秋季コンペは10月20日(金)、鎌倉パブリックで。なお、8月26日(土)に納涼カラオケ大会を実施予定である。ゴルフを卒業された諸先輩の参加を期待

したい。

 写真6改.jpg

        はつなつの稲門コンペコロナ飛ぶ   

   パーティでのビールなしでも和む顔  

   丘の上芝から樹から風薫る

(松本賢悟S51理工 記)



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posted by 鎌倉稲門会 at 14:26| Comment(0) | ◇ ゴルフ同好会

2023年05月23日

第71回「りんどう句会」報告

第71回「りんどう句会」報告

(2023年5月1日(月)鎌倉芸術館にて開催)

第71回句会は13名の出席、1名のメールによる欠席投句で、一人3句ずつ全42句の出句でした。当月の兼題は浜崎かづきさん出題の春の季語陽炎です。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

今回の最高点は、浜崎かづきさんの句、「身の上を問はず語りの遍路宿で、9点を獲得しました。選評では、「デジャビュの句。多くの類句がありそうではあるが、句としてはきちんとまとめられている良い句」という感想がいくつも述べられました。かづきさんの実体験に基づく句ということです。

7点句の田村昌恵さんの句は、酒の香りのする酒蔵の並んでいる街の様子が映像として目に浮かぶという選評がありました。この句では、上五の「陽炎に」は、つかみどころのない陽炎の特徴がそれ以下の「酒の香りや蔵の街」との取り合わせとして詠われています。

同じく7点句の山田伸子の句は、春といっても楽しいことのみではなく、門出を前にした若者の不安や揺れる心がよく表現されているとの選評がありました。特に、「桜どき」という下五の季節感がとても効いているとの評もいただきました。

6点句は、吉崎明光さんの句で、同世代、しかも早稲田の同窓生で、いまだに某ビール会社や住宅メーカーのCMなどに出演するなど現役で活躍している女優の吉永小百合さんと「昭和の日」という季語の取合せがはまっているとして、多くの仲間の心をつかんだようです。明光さんは、学生時代、図書館で偶然隣の席に座っていた彼女に気が付いたときの思い出をいかにも嬉しそうに披露していました。

次回は5月29日、兼題は前川たくさん出題の夏の季語「若葉」です。兼題1句と当季雑詠2句をご用意ください。

 当句会への新規入会あるいは体験参加希望の方は、鎌倉稲門会事務局あてメールでお問い合わせください。

【今月の高得点句一部修正、同点句は兼題優先)氏名は俳号

(9点句)  身の上を問はず語りの遍路宿        浜崎かづき

(7点句)  陽炎に酒の香りや蔵の街          田村昌恵

       青年の門出の憂ひ桜どき          山田伸

(6点句)  息永き吉永小百合昭和の日         吉崎明光

(4点句)  祖父譲り負けん気顔の一年生        鈴木金平

 百千鳥音叉ひとつの調律師         前川たく

(3点句)  かげろふの不思議を問ひし幼なき日     高吉よしえ

 寺の脇蝌蚪湧く池面さんざめく       千葉ふみ子

                                   (山田伸子記)





posted by 鎌倉稲門会 at 19:30| Comment(0) | ◇俳句の会

2023年05月20日

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第8回

鎌倉歴史散策」事前連載読物第8回をお届けします。

今回は、この連載読物の中で終盤のクライマックスと言えます。著者の筆も一層冴えわたります。

6月11日(日)開催の「第6回鎌倉歴史散策」まで間もなくとなりました。

まだ席にゆとりがありますので、多数の方の参加お申し込みをお待ちいたします。

全行程、貸し切りバスでご案内します。昼食付、参加費は一人5,500円です。

                                       副会長・幹事長 小林敏二

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             落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第8回)

                             和田家30世 和田高明

 若宮大路東側の北端に北條泰時邸があり西の北端が土屋義清邸、その南隣が和田義盛の舘でした。建暦3年(1213)5月3日決起の予定が北條方に知られ、2日早朝のうちに三浦義村は義時の威嚇に屈して離反することになりました。北條方は泰時の指揮のもとに夕刻先手を打って和田邸に奇襲をかけたのです。驚いたのは和田の武将達でしたが、すぐに反撃に出て泰時邸を制圧すると、北條勢を追って義時の舘(現宝戒寺)の攻撃に移ったのです。しかし、義時舘は厳重な防備を固めていました。細かな戦の経緯は省きますが、義時は大江広元と共に実朝を奉じて法華堂に避難していたのです。三郎義秀の果敢な攻撃にもかかわらず、既に義村は北條方に寝返っていたため将軍確保はできぬこととなり、和田軍は反乱軍となってしまったのです。和田方にとって予定外の1日目は初手から齟齬をきたし、由比ヶ浜で夜を過ごすことになりました。

 明けて5月3日、早暁から小雨が降りだしていましたが、寅の刻頃横山党が着陣したのを機に、和田方の士気が再度高まり、若宮大路を北に攻め上がっていきました。危機感を抱いた義時は、御教書を作成し実朝の花押を付して、様子見をしていた武士団に次々と届けたのです。これにより、和田方が頼りにしていた千葉介成胤麾下の下総武士団、西湘武士団等が北條方に加わってしまいました。なかなか目的を達することのできない義盛は、和田軍をまとめると最後の決戦とばかり若宮大路を攻め上がっていきました。酉の刻、遂に四郎義直が討ち取られ、最愛の息子を失った義盛は生きる望みを失って、とうとう討死したのです。二人の死を近くで見ていた五郎義重と七郎秀盛は、満身創痍の身で最早これまでと自刃して果てました。いかにも早まった行為でした。しかし、太郎常盛、次郎義氏、三郎義秀は活路を見出そうと奮戦していました。六郎義信もそれに従いました。父の遺骸を背負った三郎を中にして南防御線を突破した一団は由比ヶ浜に進出。係留されていた舟に義盛の遺骸を乗せると義秀に託し、舟が離岸するや横山党を含めた残りの武将達は稲村ヶ崎から腰越を抜けて甲州方面へと脱出したのです。かくして和田一族は敗退してしまいました。

 和田合戦で義盛は奮戦の末斬り死にしましたが、痛みを感じなかったと言われています。その代わり、義盛建立の安楽寺の本尊薬師如来(安楽寺は廃寺となり現在天養院に薬師三尊像として祀られている)が血を流しており、また、毘沙門天(清雲寺の毘沙門天像)が敵の矢を受け止めていたという話が伝えられております。

 その後について語ります。義盛の遺骸を運んだ三郎義秀は、江戸湾の入口で安東船に遭遇し、彼らの庇護の許に外房小湊に上陸して義盛を荼毘に付すと東北へ向かいました。荼毘の地は現在の誕生寺のある場所だということですが、今では痕跡も残っていません。そして秋田土崎から川辺郡岩見澤に落ち着き、その後いろいろあって津軽に移り住むことになり現在に至ります。太郎常盛・次郎義氏・六郎義信は次郎の領地都留郡古郡(ふるごおり)へ落ち延びました。北條方の和田生存者狩りは執拗に行われましたが、常盛、義氏は主人の身代わりとして切腹した家臣の首を鎌倉に送り届けたのです。

次郎と六郎は合戦直前に鎌倉を抜け出していた常盛の嫡男朝盛の周旋で、承久の乱の後、彼と共に南部へ潜入することになります。常盛の最後の妻は、畠山重忠の女千鶴だったとのことで、皆で合議の上、常盛自身は(三浦寺改め)福仙寺の住職として残り、嫡男の朝盛のみ義氏・義信と共に東北へ潜入し畠山(浄法寺氏)を頼りました。和田と畠山との関係はかなり濃厚だったのです。<以下最終回へ>

和田・畠山関係

・三浦義明―┬―杉本義宗―――和田義盛―――和田常盛―――和田朝盛

      └―女(重忠母)          

┌―女(義宗母)                 

  └―秩父重弘―――畠山重能―――畠山重忠―┬―女(千鶴)                                                                 └―畠山重慶――-浄法寺重基

 8➀和田合戦時の鎌倉地図.tif 8A95.5.4和田合戦陣羽織.jpg⇐クリックしてください。

                           

                                 <以下次号>



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2023年05月19日

地引網がタウンニュースの記事になりました。

地引網がタウンニュースの記事になりました。

 5月3日に行った「地引網」が、タウンニュース5月19日(金)号に取り上げられましたので、
ご紹介します。                                                       
                                       小林敏二

       タウンニュース20230519・地引網.PDF ←クリックしてください。










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2023年05月13日

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第7回


 「鎌倉歴史散策」事前連載読物第7回をお届けします。

「鎌倉歴史散策」は、6月11日に実施することで、先日会員皆様にご案内をし、参加募集を開始しました。

 募集人数に限度がありますので、ご希望の方は早目にお申し込みください。

                            副会長・幹事長小林敏二

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         落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第7回)

                           和田家30世 和田高明

頼朝存命中、国司就任は源氏系の御門葉・源氏と同等の扱いを受けた准門葉に限られていたのですが、頼朝亡き後北條氏がこの慣習を破ったため、義盛が対抗心で上総国司を願い出たものの、北條氏の嫌がらせを受けることになります。義時は認可をいつまでも引き延ばしたため、業を煮やした義盛が申請を取り下げたことで実朝の怒りを買うという事態になったのです。承平3年(1209)のことです。また、義村の代官が小笠原御牧で京都朝廷の牧士と紛争を起こしたのを機に、義時は義村の奉行職を解任し、佐原景連に替えたのです。当時、御家人から没収された所領や諸職は同族の他の者に与えるという慣習があったので、これに従ったかに見えますが、三浦一族の中でも三浦本宗家より佐原流を優遇して亀裂を生じさせる処置です。義時の、三浦党(中でも和田)に対する挑発が続きました。

実朝に子がない為、君側の奸義時を討伐して、頼家の遺児千寿丸を実朝の後継に押し立てる計画が密かに立てられたものの、建暦3年(1213)2月、事前に露見して事は未遂に終わりました。信濃武士青栗七郎の弟僧阿静坊安念が千葉介成胤を味方に引き入れようとしたものの、彼にその気持ちは全くなく、安念を捕縛して義時に引き渡したのです。

安念が自白したことで事の次第が明らかになりました。この陰謀の首魁とされたのは信濃小泉荘の泉親衡(親平)でしたが早々に逐電して姿を晦ましてしまいました。(彼は下北へ逃亡し、南北朝時代まで地頭を称していました。)義時は、自白で名の上がった義盛の四郎義直・六郎義重・甥の胤長を捕えました。3月8日、この知らせを聞いた義盛は所領の上総伊北荘(千葉県いすみ市・勝浦市辺り)から鎌倉に駆け付け、直接実朝に釈放歎願をしたのです。義時が近侍していなかったので、過去の忠勤や軍功を言い立てて情に訴え、息子二名を連れ帰ることができました。しかし、翌日、一族98名を従えた和田平太胤長の身柄引き渡しの要求は義時に拒絶されて実朝の許しを得られず、皆の目の前を引き立てられて二階堂行村に引き渡されたのです。17日には早くも陸奥国岩瀬郡(福島県西部)に配流。露骨な義時の挑発でした。

この胤長は和田合戦の後5月9日に殺害されたことになっていますが、実際は安東氏に救いを求めて逃亡しています。

 更に慣例に従って義盛への胤長邸返付許可を義時は取り消して自分のものとし、義盛の代官を叩き出す挙に出たのです。あからさまな義時の挑発です。義盛の辛抱も限界でした。

和田氏与党に密使が立てられました。武蔵横山荘(八王子市)の横山時兼、相模山内党の山内政宜、岡崎実忠(佐奈田義忠の子)、相模渋谷荘の渋谷高重、相模中村荘(中村党)の土屋義清(佐奈田義忠の実弟)、相模毛利荘の毛利景行、相模鎌倉党の梶原朝景(景時の弟)、横山党の庶流古郡保忠(義盛の次男義氏のこと)等で、幕府の西北隣に屋敷のある三浦義村からは「挙兵と同時に幕府北門を襲うべし」との起請文を出させて準備が進められたのです。横山党は強力な味方でした。常盛の母は前棟梁時廣の妹で、常盛自身は現棟梁時兼の妹(母の姪)を妻としていたのです。それにしても北條氏の和田に対する警戒と諜報活動は極めて長けていました。和田一族の挙兵の企ては、事前に義時に察知されていたのです。頭脳戦において、北條氏ははるかに三浦・和田を凌駕していたのです。

7A2天養院薬師如来坐像.jpg 7C毘沙門天立像[矢請毘沙門天]:清雲寺2.tif 7B1神明白旗~社.JPG ⇐写真はクリックすると拡大します。

天養院薬師如来坐像 青雲寺毘沙門天立像 神明白旗神社

                               <以下次号>








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2023年05月09日

地引網実施報告

地引網実施報告
ゴールデンウイーク中の5月3日、鎌倉稲門会では、雲一つない晴天に恵まれ、由比ガ浜海岸にて地引網大会を開催しました。昨年も100人を超える参加者がありましたが、あいにく網が海底に引っ掛かり、外れなくなるというトラブルにより、やむを得ず、途中での中止となってしまい、雪辱を兼ねての開催となりました。当日は、風も穏やかで大漁が期待される中、お隣の逗葉稲門会の方々や、会員ご家族の皆さんを含めて117名が参加しました。また、由比ガ浜海岸を活動の拠点としているウィンドサーウィン部の現役学生の皆さんによる活動報告やボードの展示なども行われました。鎌倉稲門会でも彼らのインカレ優勝を目指して、応援していくこととしています。
さて、獲物の方は、コロナ明けを目前として、今までのストレスを発散するかのように皆さん、力いっぱい網を引いた甲斐もあり、石鯛などの高級魚からイワシなど大漁となり、小学生の参加者間でのジャンケン大会で大いに盛り上がりながら、みんなで仲良く分けてお持ち帰りしていただきました。これからも近隣稲門会との交流や現役学生の支援などを含めて、さまざまな活動運営を充実してまいります。
 DSC_8544_003.JPG WS部紹介.jpeg 網を引く.jpeg DSC_8555_001.JPG 
  会長から開始宣言    ウィンドサーフィン部挨拶    網を引く
 DSC_8551.JPG DSC_8581_002.JPG DSC_8580.JPG 大きい魚はジャンケンで.jpeg
                 とれた魚は参加者に配分  こんなクロダイもとれた 大きい魚はジャンケンで
 DSC_8545.JPG (写真はクリックすると拡大されます)
  参加者の皆さん                          
                          (文:足立原啓太、写真:小林敏二・藤林明)

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2023年05月08日

第6回鎌倉歴史散策のご案内

 鎌倉稲門会 会員の皆様
 この度、「第6回鎌倉歴史散策」を添付ご案内書およびチラシに表示の通り行うことにいたしました。
 コロナ問題下の行動制限も大きく緩和されました。
長い史跡めぐりと歴史散策の催しの中で、初めて貸し切りバスを利用しての散策と思います。
テーマは「鎌倉幕府と三浦一族」です。
 まだNHKドラマ「鎌倉殿の十三人」の記憶も残る中、十三人のうちの一人和田義盛の直系末裔の当会会員を案内役講師として企画しました。
 訪問先寺社で貴重な寺宝を拝し、講師からは興味ある歴史話が聞けることと思います。
皆様お誘いあわせの上、参加お申し込みをいただきたく、ご案内いたします。

                                       副会長・幹事長 小林敏二


   歴史散策案内・参加申込書.pdf       チラシ.pdf ⇐クリックしてください。





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2023年05月06日

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第6回

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第6回をお届けします。                        副会長・幹事長 小林敏二 

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               落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第6回)

                             和田家30世 和田高明

 和田義盛とはどんな人物だったのでしょうか。三浦市の来福寺にある木像が本人の面影を残しているならば、無骨ながら慈愛に満ちた容貌をしています。大局を摑んで行動力があり統率力に優れているが、細かな事務的なことは苦手だった29代目に通じるところがあります。およそ官吏とは程遠いのです。800年以上を経てもなお筆者の従兄である30代目、そして31代目に風貌が似ています。三浦市の神明白旗神社には青銅製の義盛像(御神体)が安置されていたのですが、何時の頃か失われ行方不明となってしまいました。(盗難でしょう。)

 彼は駆け引きを好まず、感情を繕わず直截的に表して潔さを旨として情を先に立てる。考え方は、あくまで古代武人であったのでしょう。この好例として、建久6年(1195)、頼朝は東大寺再建のために上洛しましたが、三浦党と足利氏の間で騒動が起きます。この時真っ先に義澄の許に駆け付けて気勢を上げた中心に義盛がいたのです。本来ならば、騒乱を鎮める立場だったにも拘らず、です。また、領地経営から経済流通に関して時代の変化に対応できなかった面もあったと思われます。そこのところが、従弟の三浦義村と相容れぬ対立点だったのでしょう。平六義村は、北條氏の意図を推し量ったうえで自らの行動を決する、はた目には優柔不断なところがありました。義村にとっては、義盛は先のことを考えずに独断で行動を起こす粗野な奴と映っていたはずです。義村は、一族内での優位性を先に立てて、真の敵を見誤ってしまったのです。北條氏は、最終的に三浦一族を排除するのだということを。比企氏、畠山氏のことだけでも思考すればすぐに判ることでした。ほかにも千葉廣常、一條忠頼、安田義貞・義資父子の殺害等があります。結城朝光の夢見の話から端を発した梶原氏殲滅などは、巧妙に仕組まれた北條氏の罠でした。義時の妹阿波局まで加わっています。これには義盛も義村もまんまと乗せられてしまったのでした。

 宝治合戦(1247)で三浦宗家が滅亡した後、三浦介の称号は佐原流に認められるのです。佐原流とは義明の末の息子義連の系統なのです。

 頼朝の後を継いだ頼家にも三浦一族は支柱となっていました。三浦一族はあくまで源氏の御家人でした。その中心にいたのが和田氏でした。正治2年(1200)9月、頼家は小坪を遊覧し三浦一族が歓待したときのことです。座興として義盛の三男義秀が水練の芸で鮫を生け捕ってきた褒美に頼家が名馬を与えようとしました。ところが長男の常盛が相撲では負けぬので、名馬は勝者に与えたまえと申し出たので、取っ組み合いが始まりました。なかなか勝負が決せずに、義時が引き分けを提案した途端、常盛が当の馬に跨って駆け去ったので義秀が地団太を踏んで悔しがったという話が残っています。

頼家の子善哉丸(公暁)の乳母は義村の妻でした。将軍家と三浦一族の結びつきは強固だったのです。しかし、北條氏は三浦氏にも懐柔の手を伸ばしてきました。泰時の妻に義村の娘を所望してきたのです。後に矢部禅尼と呼ばれる人です。(後年離縁されています。)比企氏殲滅はこの段どりの後に行われ、頼家は修善寺に幽閉され、頼家に引導を与える役は義村が担いました。北條氏の手先となったのです。次に狙ったのは畠山氏でした。この時ばかりは、義時も父の陰謀であったことを見抜き非難しています。手遅れでしたが。

 7➀1和田義盛公像:来福寺.jpg 7➀2和田義盛旧里碑.JPG 7➀3和田城址.JPG ←クリックしてください。

 写真左から和田義盛像 三浦市・来福寺蔵、和田義盛旧里碑、和田城


                               <以下次号>


posted by 鎌倉稲門会 at 19:14| Comment(0) | ☆ 鎌倉史跡散策

2023年05月05日

2023年度稲門祭 記念品購入のお願い

鎌倉稲門会 会員各位                                                                      2023 年度稲門祭 記念品購入のお願い

薫風の候皆様におかれましては益々ご壮健のことと拝察申し上げます。

日頃より鎌倉稲門会の諸活動にご理解・ご支援をいただき、心より御礼申し上げます。

今年度《2023 稲門祭》も1022日(日)のリアル開催を予定しています。それに伴い今年度も記念品を販売し、収益は学生の奨学金とします。出費ご多端の折まことに恐縮ですが、例年通り鎌倉稲門会も以下の要領で販売窓口を設けますので金額の多寡によらず協力を賜れば幸甚に存じます。

尚 記念品の内容は添付のリーフレット@・申込用紙Aをご参照ください。

                    

申込方法:鎌倉稲門会を経由しての申し込みは、以下の(1)〜(4)の方法にてお願いします。

     (1)行事等の会場で直接申し込み(その場で現金支払い)

               (2)  電話で申し込み(支払いは後日)090-3500-7648(委員・山田重文携帯 

     (3) メールで申し込み(支払いは後日) wasedakamakura@yahoo.co.jp

(4)申込用紙Aに記入のうえ郵送(支払いは後日)

  〒247-0056  鎌倉市大船11618福美ビル303号 鎌倉稲門会事務局宛

             2023稲門祭実行委員 山田重文・伊藤真

【補遺】

〇記念品のお渡し

・基本的には《鎌倉稲門会年次総会》でお渡しします。(10月上旬)

・稲穂展(915日〜18日)

  於:鎌倉生涯学習センター地下での受取希望の方は、山田重文委員に直接

   ご連絡ください。

・会員の皆様の申し込み合計額が5万円を越えると送料(800円)が無料になります。よって当方で集計する申し込み額が5万円に達するごとに業者に発注する方法をとりますので、お渡しが遅くなります。

〇お支払い ―(1)以外は、記念品をお渡しする際、現金にてお支払いください。

〇申込期限 ― 集計の都合上、鎌倉稲門会内の〆切は 2023年8月31日(木)とします。

〇福引券について

    ・記念品購入額に応じて交付される〈福引券〉は当会実行委員が厳重に保管し、

     抽選事前申込受付が開始されると同時に半券を稲門祭事務局宛に郵送します。

    ・当選者には直接賞品が郵送されます。

 IMG_20230505_0001_NEW.pdf ⇐記念品のリーフレットと申込書です。クリックしてく

                 ださい。

posted by 鎌倉稲門会 at 20:19| Comment(0) | ○ 事務局から